長野県在住の磯部俊昭くん(35組)が長野便りを寄せてくださいました。

皆さんお元気でしょうか、35組の磯部です。

1月6日のこのHPのアップデートで吉川さんの「長野だより」が掲載されたばかりなのですが、幹事の方たちの企画なのでしょうか、同じ長野県に住む私にも寄稿依頼がまいりました。そんなわけで今回も長野からお送りします。

昨年7月、同窓会幹事の島田さん(33組)が信州にやってきました。突然の訪問に少し戸惑いながらも、非常に懐かしい二十数年ぶりの再会を果たすことができました。聞けば、二月に開催される同窓会の幹事としての職務を果たすべく、わざわざ松本まで出席を依頼(強要?)に来たとのこと。まだ8ヶ月もあるというのにこの気合。磯部、感服いたしました。万難を排して出席を実現させなければならないと考えております。

そんなことがあって今回の寄稿の依頼がきました。正直な話、茨城時代のことを思い出すことはもうほとんどなくなってしまいました。でも、昨年の島田さんとの再会が母校にまつわる記憶を呼び起こしてくれたようです。私の中でも「止まっていた時計が突然動き出しました(コピーライト 秋山先生)」ということなのでしょう。そんなわけで、まずは思い出話をいくつか・・・

茨城県の西の果ての結城市(我が家のすぐ裏は栃木県小山市でした)に昭和48年4月から昭和52年3月まで丸4年間住んでいました。親の転勤で九州から引っ越してきて、結城市内の中学を卒業後、高校への進学は『結城から水戸線だけで乗換えがないから、多少時間がかかっても楽だろう』というかなり乱暴な理由で水戸一高に決めました。しかし、いくら乗換えがないといっても、電車に乗っているだけで片道1時間20〜30分もかかるわけですから、その時間の長さにいつもにうんざりしていました。部活はできないし、毎朝早起きしなければならない。しかも週6日も。青春時代の貴重な時間が電車の中で浪費されてしまったことを思うと、少しですけど口惜しい気がしています。今、もう一度あんな生活をしろといわれても絶対にいやですね。ちなみに、今の私はのんびりマイペースで田舎生活を楽しんでいます。そのことについては後半で少し紹介します。

今は冬。季節がら寒かった思い出。水戸一高は真冬でも暖房が無くて寒かったですよね。先生も生徒も授業中コートを着ていました。授業中の私の手の定位置はお尻の下とかコートのポケットの中で、ノートを取るときだけおもむろに右手だけを引っ張り出すなどという感じだったと思います。茨城県も結構気温は下がっていましたよ。前述のように、私は電車通学だったのですが、電車の金属の窓枠に結露が生じてそれが白く凍ってしまうのを何度も見ていますから。そんな中の暖房のない教室、こんな生活も今の自分には耐えられないと思います。寒冷地に住む人間はかえって寒さに弱いものなのです。ところで私たちの母校は今も暖房はないのでしょうか?

さらに寒かった思い出がもう一つ。1年生の時の歩く会です。何か理由があって例年よりも時期が遅かったのではなかったかと思うのですが、夜間に入ってからの寒かったこと。とにかく持ってきた衣類は全て着込んで、ただただ耐えました。最後には雨ガッパやポンチョ(今はあまり見ないですね)まで重ね着する始末でした。当時トランプの大貧民がはやっていましたけど、まさしく私たちの歩く姿は大貧民そのものだったのではないかと思います。そして大休止。私たちのクラス体育館が割り当てられたのですが、シートを敷いただけの冷たい床に丸くなって横たわり、早く個人歩行の時間にならないかと時計ばかり見ていました・・・

なんだか、蘇ってきた記憶は辛かったことばかり。あまりいいことなかったということですよね。でも、考えようによっては何も思い出せないよりは遥かに幸せなのかもしれません。閑話休題再び思い出の中へ移動・・・

昭和55年、大学4年生のとき、教育実習でほんの短い間でしたが、水戸一高に通ったこともあります。当時、実家は福島県に引っ越していましたので、出身校での実習とはいっても実家からは通えず、期間中はビジネスホテル生活をしていました。そんな中、何かの機会に校長先生にその話をしたところ、江山閣に泊まったらどうかと勧めてくださいました。さすがに、実習を受け入れももらったうえ、さらにそこまではお世話になるわけにはいかず、その話は丁重に辞退させていただきましたが、そのように気にかけていただけることが、非常にありがたくうれしかったです。今あらためて考えればあの時泊めていただいていれば同窓会で話のネタになったかもしれません・・・

実は他にも思い出したことがいくつもあるのですが、あまりに恥ずかしいことばかりでここには書くことができません。なにせ十代のときのことですから。それはまた今度お会いした時にでも。

さて、思い出に浸るのはこれくらいにして、次に私の近況をお知らせしておきます。私が住む安曇野市は、以前登場した吉川さんが住む波田町とは松本市をはさんで北に位置します。昨年の10月、北アルプス(吉川さんの言う茶色の山)の東に広がる5町村が合併して安曇野市となりました。まだ市庁舎もないような出来たての市です。松本からJR大糸線で20分くらいで到着する、水田と果樹園とわさび畑が広がる典型的な田園地帯です。写真は、松本市北部の高台から安曇野方面を臨んだショット(2005年末撮影)です。


この辺が寒いということは吉川さんが書いた通りです。半端でなく寒いです。我が家で暖房に使っている灯油の200リットルのタンクは3週間くらいで空になってしまいます。とにかくこの時期、家にいて起きている時は暖房は付けっ放しです。こんなことをしているから寒冷地の人間は寒さに弱くなってしまうのでしょう。今年は灯油の値段が史上最高であるとか。春になるまで先が思いやられます。あと、このあたりは中途半端に雪が降ります。雪国のように根雪となって春まで解けないというようなことはありませんが、それでも多いときは40〜50cmくらい積もります。雪の積もった日に活躍するのは、そうゴム長靴です(皆さんは持っていますか?)。ここに住んでいると何の抵抗もなくゴム長靴が履けるようになります。私が勤める会社の本店が新宿のNSビルに入っているのですが、たまに東京に雪が積もると本店フロアをゴム長靴で闊歩する人が現れるとか。なにせ長野県出身者が多い会社ですので。皆さんの地元でも流行らせてください。我が家から車で北へ1時間くらい行きますといくつもスキー場があって非常にアクセスがよいのですが、スキーはいくらやっても上手くならないのでやめてしまいました。代わってスノーシュー(Snowshoe)を始めました。ただ雪の上を歩くだけのものなので技術なんて必要ありません。天気のいい日に、雪崩が来ないようなバックカントリーを歩き回って、陽だまりでお茶飲んで。これだけなのですが結構楽しいですよ。寒さに弱いと言ってたじゃないかとご指摘の向きもありましょうが、遊んでいるときは寒くないんですよ。

冬の楽しみはそのくらいしかありませんが、夏はもうちょっと楽しめます。まず登山。中高年と呼ばれる歳になって尚盛んに山に入っています。まわりの登山者も中高年の方はとても多いです。中高年の登山ブームはもはや完全に定着した感じです。地元の山である北、南、中央、八ツの主要な山はほぼ登り尽くしてしまいました。今では、今度はどこへ行こうか、どんなコースをとろうかと悩んでおります(悩むのもまた楽しい)。写真は10月の常念岳山頂です。背景の山は槍ヶ岳。槍ヶ岳は皆さんご存知ですよね。そして、このむさくるしいおやじが今の磯部です(逆光で顔が良く見えないところがミソ)。


それと自転車。ロードレーサーって知っていますか? 去年、谷垣財務大臣が乗っているとか、忌野清志郎の自転車が盗まれたとかで話題になりました。30代後半になって、ウエストサイズが気になるようになってから始めました。よく目立つように派手な(目立たないと交通事故を起します)ジャージ着て、お尻にパットが入った(スパッツのような)レーサーパンツを履き、ヘルメットと指切りグローブを装着して準備完了。気分はランス・アームストロング(プロ自転車選手。2005引退)です。走行中は風と一体化します。爽快ですよ。でも、逆風のときは地獄をみますけどね。一度家を出ると3〜4時間帰ってきません。距離にすると70〜100Kmくらいになります。ちなみに、一番入れ込んでいたときには月間走行距離1000Kmなんてこともありました。モチベーションを維持する目的でレースにも何度か出ています。ヒルクライムというカテゴリーの大会で、毎年、松本市内では美ヶ原と乗鞍岳で開催されます。標高差1200〜300メートル、平均斜度5〜6%、最大斜度13〜14%のコースをただ登るだけのレースです。登るだけのコースなのでスピードがでなくて比較的安全ですし、年代別のレースですから、過剰に若い人たちを意識することもなくマイペースで走れます。順位なんてどうでもよくて、ゴールしたあとの達成感をあじわうだけで十分だと思っています。ただ、ここ2年は調整不足など諸般の理由でDNSとなっていますので、今年こそはと年頭に誓った次第であります。自転車を語り始めたら止まらなくなってしまいます。調子に乗ってつまらないことを随分書いてしまいました。今日はこのくらいで終わりにしたいと思います。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。こんな文章では現国の永島先生のお叱りを受けてしまいそうですね。

以上、信州で遊んでばかりいる磯部がお届けしました。皆さんの思い出や近況もこの場で、そして同窓会会場でお聞かせください。
それでは2月25日東京で。

1月12日 安曇野にて 磯部俊昭

吉川くんの長野便り