池井 芳寛先生(物理)


私が水戸一高に着任したのは、皆さんが2学年の昭和50年4月、校長の島司郎先生の外、高橋正利(国語)、中村一夫(数学)、後藤克巳(物理)、倉本嗣士(生物)、萩原靖夫(生物)、田口邦生(音楽)の諸先生と私(物理)の8名でした。その後、昭和58年3月までの8年間勤務しておりました。

水戸一高にきて最初に感じたのは、授業は勿論のこと、部活動、生徒会活動、学苑祭、歩く会、また制服がなく私服で通学等、生徒の一人一人と向き合って個性や自主性を大事にしているということでした。いいかえれば、割合と個性的な生徒が多かったということかも知れません。このことは、私の息子が昭和53年度から水戸一高生として過ごした様子からもうかがえるように思います。授業は当時、50分授業の他の高校に無かった65分授業で生徒達はそれに十分対応できていたように思えます。これら水戸一高の組織や授業の形態、生徒の気質、校風とか雰囲気について、私自身、違和感なく同感でき、素晴らしい環境の中で勤められたことを今でも感謝しております。

最近、卒業生の恩田陸著「夜のピクニック」を読み、皆さんが歩く会で2・3年のとき降雨で途中までで中止になり、私は2年目はじめて、広浦、那珂湊、東海コースが出来、私自身も参加し、団体歩行は33組と一緒に歩き、翌日の自由歩行は走るのが苦手で全部歩き通し、何とか750番で到着したので、この本が当時のことをなつかしく想い起させてくれました。

教壇に立って生徒と接するのが望みで教師の庭に進んだ私でしたが、皆さんが卒業後の昭和55年4月から水戸一高での3年間教頭を命じられ、同時に授業をすることが無くなり、寂しい思いをしたものでした。水戸一高を離任した後、校長として江戸崎西高、次いで新設された茎崎高校を経て昭和63年3月に定年退職をしました。

退職後、妻と一緒に旅行したり、ドライブや写真を撮ったりでしたが、妻の急逝で一人暮しをはじめ、妻への追憶を執筆したり、孫とのEメール交換などで現在に至っております。