宮本 克先生(34組担任、社会)

【私の水戸一高時代の思い出】

昭和19年4月、旧制水戸中学に入学。この年の5月1日、『知道月報』が、戦争悪化のため廃刊。この『知道月報』には、私たち入学試験の合格者が掲載されている。学徒勤労動員公布により学校報国隊が水戸中学にも編成された。それによって、1年生であった私たちは、石神(現東海村)で松根油採取のための開墾をした。昭和20年3月、決戦教育措置要綱で、4月から授業停止。同年8月2日未明、空襲により明治29年以来の校舎は全滅。9月、青空教室が桜の木のもとで開始。10月20日、旧37部隊(現茨城大学)に全校移転。11月、吉田の陸軍通信学校より机椅子を運搬。ゲートル廃止。知道会復活。翌年、農繁期休業があった。9月には、野球クラスマッチが始まった。11月18日、昭和天皇が茨城県に行幸。19日、37部隊での本校の授業を視察。翌22年3月、教育基本法・学校教育法が公布された。それより先、文部省は新学制実施方針を発表。高等学校は23年度より実施することになった。

昭和23年4月1日、新制高等学校が発足。同日、茨城県立水戸第一高等学校も発足。私は、旧制水戸中学4年から新制高校2年に編入となった。11月、水戸商工会議所で開催された総合科学展に史学会の一員として参加。

水戸一高の校舎も、昭和22年9月に始まる復興工事で次第に整っていった。当時の校舎はバラックであって、雨や雪が吹き込んできた。昭和24年、知道生徒会が発足。11月5日に行われた第1回歩く会(勿来・水戸コース)で完歩した。同年11月22日、創立70周年記念行事での展覧会に参加した。翌25年3月8日、新制高校第2回卒業式が行われ、私の父も参加した。

空襲で焼けた時の青空教室・旧37部隊の石ころばかりのコートで軟式テニス、史学会で名越時正・興野高也・村田正恭の諸先生の引率で東京国立博物館の正倉院展・金砂城などの史跡をめぐった。中秋の名月の時の第1回歩く会は特に思い出に残っている。


【私の水戸一高を卒業してから今まで】

私は水戸一高を卒業して、東京教育大学(文学部)に第2回生として入学した。大学では、文理科大学・高等師範の講義がとれた。務台理作・下村寅太郎・有賀喜作衛門・稲田政次・山岸徳平・小西甚一など。2年になって学科にわかれ、日本史学に入った。そこでは、和歌森太郎・西山松之助・家永三郎・米代修一・芳賀幸四郎・後藤栄一の諸先生の講義やゼミをうけた。

学生時代は水戸塾で生活した。そこでは、後に映画監督になった深作欣ニ氏らと塾のコートでテニスをした。また、三越劇場で東山千栄子の「桜の園」竜沢修の「炎の人・ゴッホ」をみ、また山本安英の「夕鶴」などをみた。

私は1年終わって留年し、映画や演劇・展覧会をみ、特に新宿日活の名画上映でみた「パリ祭」「大いなる幻影」や、イタリアンリアリズムの「自転車泥棒」「苦い米」そして大学入試後に銀座でみた「赤い靴」などは印象に残っている。

私は1年留年し、昭和30年3月に卒業し、山崎学園富士見中・高等学校に就職した。もっぱらテニスを生徒とともにし、昭和41年には関東大会(団体・女子)で優勝し、またインターハイには2回で、弘前での大会の団体女子でベストエイトに入った。今では富士見の同窓会や旧職員会に出るのを楽しみにしている。

富士見に勤めていた時は、中板橋・都立家政・練馬の南田中、そして千葉の柏の団地に住んだ。私は結婚してから後であるが、茨城県の教員試験を受け、日立一高に就職した。この頃、2男1女にめぐまれた。日立一高に就職する時、水戸一高の恩師大和田健児先生のお世話になった。昭和42年4月、水戸一高に転勤した。なお、日立一高で担任した卒業生と今でも同窓会でおあいしている。

水戸一高では、日本史・世界史・倫理・選択日本史などを担当した。選択日本史ではテストせず、レポートを出させた。校務分掌では生徒指導部・教務部。教務部は6年やった。クラス担任は昭和52年度と昭和55年度の2回であった。この間に、創立百周年を迎え、「水戸一高百年史」の執筆・編集に水戸一高の同僚職員とあたった。部活は軟式庭球部であった。

水戸一高勤務の最後の年の秋、文部省の教員海外派遣に選ばれ、スウェーデン(ストックホルム・ウプサラ・ノルシェピンク)・東ドイツ(ベルリン・ドレスデン・リーザ)、アメリカ(プルーミントン・サンフランシスコ・ヨセミテ公園)を訪れ、学校訪問や観光で楽しい旅をした。特にノーベル賞受賞者を祝うパーティが催されるストックホルム市庁、リンネの墓のあるウプサラ、東ドイツでは東ドイツのペルガモン博物館・ドレスデンでのツウィンガー宮殿とエジプト博物館・エルベ河の風景・フランスではルーブル博物館とロダン博物館が印象に残った。

その後、大宮高校で2年、水戸ニ高で教頭1年、高萩高校校長3年勤務して退職。高萩には当時、夜間定時と家庭科があり、定時制では欽ちゃんも関係した定通軟式大会で神宮球場などに行き、家庭科では全国家庭クラブ大会で札幌・秋田に行った。また、水戸二高の創立百周年記念会に出席、池辺晋一郎の話を聞いた。

平成4年、教職37年で退職した。退職後は妻と国内・海外旅行で楽しみ、海外では奈良の薬師寺主催の玄奘大師生誕記念と日中国交回復35周年記念で長安・洛陽・上海などを訪れた。国内では足摺岬・高野山・比叡山・清水寺・妙心寺・金毘羅神社(高橋由一の鮭)・恐山・北神のブナ林・利尻・礼文・知床・鳥取の砂丘・金沢公園・輪島・金沢文庫・遊行寺(飛鳥大仏)などを訪れた。最近では水戸一高のソフトテニス創部百周年で「百年誌」の執筆・編集を行った。記念会は故深作欣ニ氏を招いて講演を聞き、京成ホテルで祝賀会を開いた。

教育のことではないが、当時水戸弁護士会といった茨城弁護士会から弁護士会の執筆を委嘱され、「水戸弁護士会史」(780ページ)を執筆・編集し、第一法規から出版した(平成4年3月)。