第10回「復活・歩く会」合同自主トレ総集編
【イベント報告】掲載:平成29年2月4日
●新年会編(平成28年1月17日開催)
場所: 柏 高島屋ステーションモール新館9F「龍潭」
参加者: 雨澤さん(31組)、堂(旧姓飛田)さん(33組)、川島(旧姓唯根)さん、阿部くん、
汀くん(以上34組)、小久保(35組)、堀米(旧姓坂本)さん(38組)、佐々木くん、飯村くん、
堀之内くん(以上39組)。 合計10名
概要: 地元、柏在住の川島さんお薦めの沖縄料理店で開催しました。
【報告・撮影】小久保(35組)
●三浦海岸河津桜編(平成28年3月6日開催)
コース:三浦海岸駅~小松ケ池公園~三浦海岸駅(昼食)~来福寺~日枝神社~白旗神社~
和田義盛碑~和田城跡~和田長浜海水浴場~矢作入口=(バス利用)=三崎口駅=
久里浜駅 (打ち上げ) 約14キロ
参加者:石井くん(31組)、島田くん、堂(旧姓飛田)さん(以上33組)、
川島(旧姓唯根)さん(34組)、小久保(35組)、飛田くん(37組)、
堀米(旧姓坂本)さん、海老澤くん(以上38組)、飯村くん、堀之内くん(以上39組)
合計10名
概要:三浦半島で河津桜が見られるという話を聞き、京急に乗って三浦海岸駅に行ってきました。自主トレの案内を52卒ML等に送ったところ、神奈川在住の島田くんが三浦海岸駅の河津桜に関する情報を事前に送ってくれました。それによると、平成12年より町おこしのため伊豆の河津桜を三浦海岸駅から小松ヶ池までの約一キロの散策路にコツコツと移植して、例年2月中旬から約一ヵ月間「三浦海岸桜まつり」が開催されているということでした。今年は2月13日から3月13日の開催でした。植樹した1,000本という本数は本家の伊豆・河津川沿いの800本を超え、見事な桜並木となっているとのことです。
三浦海岸駅は京急品川駅から快速特急で約1時間です。三浦海岸駅に向かう電車の途中、島田くんから「晴れています」というメールが届きました。ところが横浜駅までは良い天気だったものの、横須賀駅では曇り空になり、久里浜駅を過ぎるとついに雨粒で車窓が濡れだしました。私よりも早い電車で到着した石井くんによると、三浦海岸駅に到着したときには既に雨が降っていたので、とりあえず傘を購入したということでした。しかし、私が三浦海岸駅に着いた頃にはもう濡れるような降りではなくなっており、ウォーキングには問題ありません。
水戸から参加の堂さんは自主トレ後に横浜で宿泊するということで、大きな荷物を持っていました。幸いにも三浦海岸駅でたった一つ空いていたコインロッカーに納めて、さあ、出発。駅前の三浦半島の名産品を扱うテント村を抜け、「小松ヶ池」という案内板に沿って少し歩くと、ガードを潜り、河津桜の散策路が始まりました。今冬の温かさのため、もうすでに半分は葉桜になっていました。河津桜の下には菜の花も植えられており、こちらは見事な黄色い絨毯となっていました。案内板通りに京急線のガードを再び潜ると「小松ヶ池」に到着しました。「小松ヶ池」は1856(安政3)年に名主・金子惣左衛門が整備した農業用の1.5ヘクタールの溜池です。土手には河津桜が咲いており、数店の出店がありました。特に端っこのお店のおじさんがタダで配っていた落花生が美味しかった。河津桜の下で記念写真(写真下左)を撮りました。
小松ヶ池から再び三浦海岸駅に戻り、まだ12時には少し早かったのですが昼食場所を探しました。しかし自主トレ当日の3月6日は三浦国際市民マラソンが開催されており、駅周辺は参加賞の「三浦大根」を持った選手や応援の皆さんで大混雑でした。そのため席が空いているお店を探しウロウロすることになりました。幸いにも信号待ちをしている時にちょうど「和光庵」というお店からお昼を食べ終わったと思われる一団が出てきたので、その場にいたメンバーにまずは座ってもらい、少し後を歩いていたメンバーは外で順番を待つことにしました。ちょうど入れ替わり時だったのでしょう、さらに数分で残りのメンバーも座ることができました。「三崎マグロの漬け丼」や「シラス丼」がおすすめでした。
午後は、源頼朝に仕えて数々の戦功を立て鎌倉幕府創建に貢献した武将、和田義盛公に因んだ史蹟を廻りました。最初は「来福寺」というお寺に向かいました。三浦海岸駅前の道をかなり登ってから再び降りるという、複雑な気持ちにさせる地形でした。「来福寺」は和田義盛公の菩提寺です。立派な山門と本堂があり、本堂には和田義盛公の肖像が安置されているということでした。「来福寺」は谷底に位置しており、次の目的地の「日枝神社」に行くためには台地の裾を蛇行しながら登らなければなりません。台地に登ってみると三浦大根が栽培されていました。ちょうど「来福寺」の崖上にあたるところから、「日枝神社」の社殿を包むこんもりとした林が見えました。この一帯は「塔の台」と呼ばれていたそうです。「日枝神社」からは急な下り道が続き、「霊泉」から出た水はかつて和田義盛公が「精進川」と名付けたとされる川に注ぎ、それが水田地帯内で合流したという庄司川に出ました。残念ながら土地改良工事のため精進川の痕跡は見つけられないと案内板に記載されていました。
庄司川沿いに下っていくと、家屋敷が立ち並ぶ一角に出ました。「初声町入江」という地名で、昔は海だったのかもしれません。左に広い田んぼを見ながら台地と田んぼの境界を歩きました。ふと台地の上のほうに振り返ると、先ほどの「日枝神社」の森が見えました。鎌倉時代には、「塔の台」と呼ばれた台地は重要な位置にあたったようです。さらに歩くと程なく「白旗神社」の案内板がありました。鳥居の向こうは見上げるような急階段、みんなで足元に気を付けながらゆっくり登って行きました。「白旗神社」は和田義盛公が源平合戦の戦勝祝いに「初声(はっせ)」を舞ったことから名付けられたということです。
県道134号線を渡ると大正時代に建てられた「和田義盛旧里碑」がありました。さらに歩き、神奈川県立平塚農業高等学校初声分校のそばを登ると、海型の野外教育施設「三浦ふれあいの村」があり、その一角に「和田城祉」の碑がありました。このあたり一帯が和田氏の居城だったようです。さらに歩くと和田長浜(わだなはま)の海岸に出ました。ここは三浦海岸駅とは半島の反対側にあたるため、本日は三浦半島を横断したことになります。砂浜で記念写真(写真下右)を取りました。
そして帰りのバス停「矢作入口」へ400メートルぐらいの砂浜を歩きました。今回の歩行距離は14キロメートルでしたが高低差がかなりあったので疲労がたまり、最後の最後での砂浜での歩行は相当きつかったかもしれません。かなり到着時間に差が出ましたが、何とか全員歩き切り、「矢作入口」に到着しました。ここで島田くんは奥様が風邪のためお家で寝ているということで打ち上げなしで帰宅することになりました。残ったメンバーは近くのレストランで打ち上げを行う予定でしたが、運の悪いことに「本日貸切」という看板が出ており利用できませんでした。そこで、「矢作入口」のバス停に戻って三崎口駅行きのバスに乗りました。そして三崎口駅から久里浜駅まで移動して、以前利用したことのある「さかなや道場」で三浦のマグロを肴に打ち上げを行いました。
河津桜と三浦半島の歴史に触れられた充実したウォーキングの一日でした。
小松ヶ池の河津桜 和田長浜海岸
【撮影】佐々木くん(39組) 【報告】小久保(35組)
●板橋編(平成28年4月29日開催)
コース:高島平駅~戸田の渡し~薬師の泉~小豆沢公園~志村城跡(熊野神社)~縁切り榎~板橋~
近藤勇墓所~板橋駅(打ち上げ) 約18キロ
参加者:石井くん(31組)、小久保(35組)、飛田くん、高沢くん(以上37組)、
飯村くん、堀之内くん、佐々木くん(以上39組) 合計7名
概要: 今回の自主トレは高島平団地を出発点に荒川の堤防を下り、戸田橋のところで中山道に合流し、旧・板橋宿に向かうコースです。事前に石井くんから10分ほど遅れるという連絡があったので、出発は10時15分になりました。
まず高島平駅の南側の高島平団地の中を散策しました。高島平団地は昭和47(1972)年から入居が始まった大規模団地です。中層棟(5階)が26棟、高層棟(11~14階)が38棟もあり、すごい景観です。後ろのほうから「迷ったら、帰れないかも・・・」という声も聞こえてきました。また、建物が40年以上経過という老朽化と間取りなどが現代的ではないという課題もあるようです。それに対してUR都市機構と無印良品の共同プロジェクト「団地リノベーションプロジェクト」が進行中とのこと。「生かす、変える、自由にできる」をキーワードに巨大団地の活性化を狙っているようです。高島平は容積率に余裕があった時代に建設されたため、団地の外周は曲線をふんだんに取り入れた散策路で、駅までの道路はケヤキ並木となっており、かなり住みやすい印象でした。私たちは高層棟がそびえる高島平2丁目を一周し、出発点の高島平駅に戻ってきました。これでウォーミングアップ完了です。
次は駅の北側に出て、徳丸ヶ原公園に向かいました。徳丸ヶ原は江戸幕府のお鷹場で、幕末に砲術専門家の高島秋帆が日本初の洋式調練を行った地として知られています。そのため昭和44(1969)年に高島秋帆の名前にちなみ「高島平」と名付けられたということでした。現在の徳丸ヶ原公園には高島平関連の記念碑や「こども動物園」や運動場が整備されています。
徳丸ヶ原公園の近くの新河岸川に架かる徳丸橋を渡ると荒川に挟まれた低い土地です。「災害時には大変そう…」という話が出ました。少し歩くと見上げるような高さの堤防。「荒川土手」と呼ばれ、10メートルを優に超えているようでした。堤防を登る階段は50段以上あるようで、「今日は平地だと思ってきたのに…」と恨む声も聞こえてきましたが、自主トレですので、とんとんと登っていきましょう。
荒川河川敷の中にはいろいろなスポーツ施設がありました。荒川土手の芝生の中を歩いていると人だかりが見えてきました。何をしているのかと近づいてみると駅伝大会のようです。選手の邪魔にならないように通路の端を歩いていきました。さらに堤防を歩くと、戸田橋とそれに並んで架かる埼京線・東北新幹線荒川橋梁が見えてきました。これらの橋の100メートル下流に戸田の渡し跡があるはずです。しかし2つの橋の橋脚付近は道路が入り組んでおり、簡単には潜れそうにありません。地図よりも現場感覚を優先し、堤防の法面(のりめん)をバランスよく歩いて鉄橋の反対側に出ました。すると堤防の上に「戸田の渡し跡」の石碑があり、記念写真を撮りました。後ろに見える2本の煙突は食品や化粧品の瓶を製造している第一硝子株式会社です。
次は堤防から降りて浮間公園の傍を歩き、近くの船渡・氷川神社にお参りしました。この氷川神社は社殿が何度も流されても元の地に戻ってきたという言い伝えから「十度の宮」とも呼ばれ、再生を祈願する神社として有名だそうです。
船渡・氷川神社を後にしてまもなく第一硝子の工場前を通過し、見上げるような2本の煙突の大きさを実感しました。さらに中山道に合流し、かつての江戸方向に歩きました。ところが、参加者の皆さん、お昼前でしたが既にお腹が空いたということ。新河岸川の橋の手前にラーメン屋さんがあったので、少し早めのお昼にしました。
午後は国道17号に沿って旧・板橋宿に向かいますが、途中にある志村という地が中山道の難所だったということから名所が沢山ありました。まず小豆沢という地に差しかかると中山道は登り坂になりました。その近くにはかつての大善寺(後述)の元境内があり、昔から泉が湧き出ていたということから、平成元(1989)年、江戸文化の趣がある庭園「薬師の泉」として板橋区により再建されました。静かな雰囲気の日本庭園が崖に沿って造られていました。
「薬師の泉」から少し中山道を外れて崖に沿って歩くと「御手洗(みたらし)不動」旧跡があり、さらに歩くと小豆沢神社への石段がありました。20メートルぐらいの高低差の石段を登り切ると小豆沢神社に到着しました。「高低差なしじゃなかったの?」という苦情もありましたが、ここは中山道の難所の一つです。それに鳥居から見事な銀杏並木が続いていました。次は小豆沢神社の隣の龍福寺に参拝しました。龍福寺は別名「板碑寺」とも呼ばれるように建長7(1255)年以降の数多くの板碑が残されていました。また藤棚の藤がきれいに咲いていました。
龍福寺から方向を変えて崖の上を歩いて中山道に戻りました。途中の小豆沢公園内には昭和53(1978)年に架け替えられた「戸田橋」の親柱が移設されていました。そしてその隣に「総泉寺」というお寺がありました。ここには江戸名所図会にも掲載されていた古刹「大善寺」というお寺が大正時代まであり、湧き出る清水に因んだ「清水薬師如来」を祀っていたそうです。ところが元々浅草にあった総泉寺が関東大震災で被害を受けたため、昭和3(1928)年に大善寺のところに間借りする形で移転し、その後合併したということです。妙亀山と号された山門を入ったところ、建設中のままの本堂があり、とても妙な感じでした。帰宅後WEBで調べてみましたが、詳しい経緯はわかりませんでした。山門前に「清水薬師如来」と記された石柱がわずかに昔の大善寺を忍ばせるもののようでした。
総泉寺から中山道に降り、国道17号を横断し、志村坂上駅前を通って「しむらん通り(志村銀座商店街)」を歩きました。この商店街は日曜日の午後は歩行者天国になっているようです。そして最初の曲がり角で旧中山道の清水坂のほうに歩きました。変則的な四つ角があり、そこに大山道との分岐を示す道標と庚申塔がありました。その少し先に「清水坂」がありました。もう少し下って旧中山道が逆S字にカーブとなるところは中山道では珍しい右手に富士山が見えるところで、江戸時代の景勝地ということです。そこから分岐の道があり、先ほどの「薬師の泉」に通じていたようですが、現在はその分岐道は国道17号により遮られています。
清水坂から再び「しむらん通り」に戻り、次の目的地、志村城址を目指しました。志村城は豊島氏の一族、志村氏によって築かれ、その後、北条氏の支配となったものの小田原攻めの後北条氏が滅亡し、1590年ごろ廃城になったようです。現在は城址には志村小学校や志村熊野神社が建っています。熊野神社にお参りした後、台地の端の道を通って延命寺、見次公園を経て中山道に出ました。途中に印刷会社の巨大な工場が建っていました。
さらに中山道に沿って歩き、本蓮沼駅、板橋本町駅を過ぎて左に曲がり、いよいよ板橋上宿の旧中山道に入りました。旧中山道を少し歩くと「縁切り榎(えのき)」がありました。縁切り榎は大六天神様のご神木で、男女の悪縁を切るだけでなく、タバコや病気など幅広い縁切りに効果があると言い伝えられています。参加者の話題になったのは、「酒癖の悪い酒飲み」に縁切り榎の樹皮を飲ませれば酒との「えにし」が断たれて下戸になるということでした。これは試す価値があるかもしれません。
次は板橋仲宿の石神井川に架かる「板橋」です。現在はコンクリート製の橋ですが、昔は本当の板橋だったということです。まもなく端午の節句、石神井川には手作りの鯉のぼりが泳いでいました。板橋の欄干のところで記念写真を撮りました。
そして、中山道を江戸方向に歩き、今回の自主トレの最後の目的地、板橋駅東口の板橋平尾宿にある「近藤勇と新選組隊士の墓」に向かいました。駅前の一角に近藤勇の像と供養塔が建っていました。
今回は高島平団地から戸田の渡しを経て、中山道を板橋宿まで歴史のある道を歩きました。打ち上げは板橋駅西口の「北海道海鮮水産」というお店で行いました。なぜか九州フェアを行っていたので、ラッキーにも日本全国の美味しい魚を食べることができました。
戸田の渡し跡 板橋
【撮影】佐々木くん(39組) 【報告】小久保(35組)
●旧古河庭園編(平成28年5月15日開催)
コース:御茶ノ水駅~神田明神~圓乗寺~大円寺~駒込駅前~妙義神社~門と蔵のある広場~
染井霊園~本妙寺~旧古河庭園~上中里駅=上野駅(打ち上げ) 約8キロ
参加者:石井くん(31組)、島田くん(33組)、小久保(35組)、飛田くん(37組)、
海老澤くん(38組)、飯村くん、堀之内くん、佐々木くん(以上39組) 合計8名
概要: 江戸の春を彩ったソメイヨシノの故郷の旧染井村と、江戸時代は「西ヶ原牡丹屋敷」と呼ばれていた旧古河庭園を散策しました。季節は5月、薔薇の花が咲き誇るころ、ちょうど旧古河庭園では「春のバラフェスティバル」が開催中でした。
今回のスタートは御茶ノ水駅(写真下)。総歩行距離が8キロと短いので午後1時集合としました。まず、近くの神田明神で当日のウォーキングの無事を祈願しました。例年5月15日に行われる例大祭ですが、2016年は5月15日が日曜日と重なるため、17日に行われるのだそうです。そのため、この日は奉納太鼓が行われ、全国各地から集まった「タイコ・パフォーマー」が自慢の腕を競っていました。女性パフォーマーのほうが多かったためかはわかりませんが、ウォーキングメンバーがなかなか境内の集合場所に集まりません。自由観覧にしなければよかったですね。
ようやく全員が揃い、佐々木くんの案内でさらに境内を奥に進むと、江戸の粋を現す「小唄塚・小唄作詞塚」や若者たちが力比べに使った「力石」がありました。そして奥の石段を下り、蔵前橋通りに出ました。清水坂下の交差点を左に曲がり、少し歩くと「日本サッカーミュージアム」の看板が見えました。ここは2002年FIFAワールドカップの記念に設立されたミュージアムで、「日本サッカーの伝統と遺産を次の世代に伝承する目的」で設立されたということです。今回は“江戸”がテーマなので、ミュージアムは次の機会としましょう。
蔵前橋通りから国道17号の本郷通りを歩き、五月祭で賑わっている東大の前を通過しました。農学部前の交差点を左に曲がり白山の方向に歩くと、「八百屋お七」のお墓がある圓乗寺は間もなくのはずでした。Googleマップ上では白山の駅のそばだからすぐに見つかるだろうという考えは甘かったようです。白山への坂を軽やかに登っていくと、そこは「白山上」という交差点でした。なんと通り過ぎてしまっていたのでした。
早速、飛田くんのスマホナビの出番!「圓乗寺」を探してもらうと、本郷通りから狭い路地に入った急な下り坂の先の谷底を示していました。スマホの示す通りに行ってみたところ、圓乗寺へは抜けられない道でした。幸いにも近所の方がいらしたので尋ねたところ、「一度、ライオンズマンションのある通りまで戻って、その坂を下って、坂の終わりのところにある路地を入って行けばよい」と丁寧に教えていただきました。
江戸時代の当地は台地と谷が入り組んだ地形で、現在の白山駅付近は「鶏声ヶ窪(けいせいがくぼ)・指ヶ谷(さすがや)」と呼ばれていた谷でした。現在は暗渠(あんきょ)となっている「東大下水(ひがしおおげすい)」と呼ばれた神田川の支流が流れていたということです。一方、現在の国道17号である中山道などを始めとした主要街道は台地の上を通っていました。
教えていただいたとおりに坂を下っていくと圓乗寺の山門があり、「八百屋お七」の墓へは狭い路地をさらに60メートルぐらい歩いてようやく到着しました。先ほどはこの墓の脇にある高さ7メートルの崖上で道に迷ったのでした。「八百屋お七」は「好色五人女」(井原西鶴作、1686(貞享3)年発刊)で述べられています。実際には諸説があるようですが、案内板によれば、天和の大火(天和2(1682)年)で焼け出されたお七の一家は圓乗寺に避難し、お七は避難中に寺小姓(佐兵衛、もしくは、吉三郎)と恋仲になり、家が再建されて自宅に戻ると寺小姓に会いたい一心でつけ火した、ということです。翌年3月につけ火の咎で火炙りとなった「八百屋お七」の墓は3基あり、中央が当寺の住職が供養のために建てたもの、右がお七役を好演した五代目・岩井半四郎が寛政年間に建てたもの、左が近所の有志が270回忌に建てたものだそうです。
圓乗寺から先ほどの急な坂を登って国道17号に戻りました。次の訪問先は「大円寺」です。大円寺は前回の自主トレ(平成28年4月29日開催)の出発地だった「高島平」の地名の謂れとなった幕末の砲術専門家「高島秋帆」の墓所があるところです。また先ほど墓所を訪れた「八百屋お七」にゆかりの「ほうろく地蔵」が祀られています。「ほうろく地蔵」とは事件後の享保4(1719)年に建立されたお地蔵さまで、「お七の罪業を救うため、熱した焙烙(ほうろく)を頭にかぶり、自らも焦熱の苦しみを受けている」と寺の由来書に記されているということで、それ以後、首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵さまとして有名になったという話です。
大円寺の「金龍山」と号された山門を潜るとすぐに「ほうろく地蔵」が祀られていました。お地蔵さまの頭には焙烙が何枚か乗せられ、傍には千羽鶴が納められていました。頭痛、眼病、耳鼻の病の治癒を願っているのでしょう。大円寺本堂に参ると、本堂脇の出口から墓所に通じていました。墓所との間の狭い路地を本郷通りの方向に歩きました。この辺りは「向丘(むこうがおか)」と呼ばれ、現在の東京大学付近の本郷台地を指す地名のことだそうです。ここからは江戸時代に「日光御成街道」と呼ばれていた道(東京メトロ南北線の地上部分)を駒込駅の方向に歩きました。
1キロぐらい歩くと海外からの旅行者の姿が目立つようになりました。どうやら旅行者の人気スポットのひとつである「六義園(りくぎえん)」に近づいたようです。六義園には平成25(2013)年5月の自主トレで訪れたことがありました。その時は谷中から六義園へ東西方向に歩きました。今回は御茶ノ水駅からなので南北に歩いたことになりました。六義園を過ぎ、駒込駅を越えると「染井吉野桜記念公園」がありました。駒込の駅前広場を地下駐輪場とともに公園として整備した時にそのように命名されたということです。さらに歩いて日光御成街道の西側にあたる豊島区駒込3,6,7丁目辺りが旧染井村だそうです。駒込3丁目にある妙義坂を左に折れると妙義神社の鳥居が見えました。昔、この辺りは石神井川の流路だったということで低い地形となっています。妙義神社は日本武尊を主祭神とし、太田道灌公が戦勝祈願されたということで、「勝守」で知られています。
妙義神社を参拝し、境内の脇を迂回して駒込小学校に出ました。すると「門と蔵のある広場」がありました。ここは江戸時代から明治後期まで染井を代表する植木職人として活躍した丹羽家の跡地に作られた広場で、江戸時代に建てられたと推定できる腕木門(腕木という梁で屋根を支える形式の門)と昭和11(1936)年に建て直された蔵が保存されていました。
次は染井霊園を通って「明暦の大火(振袖火事)」の火元と云われている本妙寺を参ります。本妙寺は「遠山の金さん」こと遠山景元の墓所があることでも知られています。江戸時代の本妙寺は本郷丸山(現在の本郷5丁目16番地、菊坂付近)にあり、明治44(1911)年にこの地に移転したということです。菊坂付近は平成26(2014)年12月の自主トレで「樋口一葉の旧居跡」を訪ねたことがあり、移転前の本妙寺のすぐ近くだったようです。「徳栄山」という山号が記された山門を潜ると本堂が見えました。本堂の隅に「明暦の大火供養塔」が安置されていました。
明暦の大火は明暦3(1657)年1月に本郷丸山の本妙寺から出火したと伝えられています。乾燥した日が続いていたためとその日は北西の風が強かったため、飛び火で広範囲まで延焼したということです。江戸城も西の丸を除き焼失したということで、正確な数値は不詳ながら、当時を記録した「むさしあぶみ」(浅井了意作、万治4(1661)年刊行)では死者10万人ぐらいと伝えられた大災害であったということです。
本妙寺を後にして、染井霊園の外周道路を通って、今回の自主トレの最終目的地「旧古河庭園」(国指定名勝)に向かいました。「旧古河庭園」は武蔵野台地と低地の高低差(約10メートル)を利用し、小高い丘には洋館、斜面には洋風庭園、低地には日本庭園を配したことが特徴とのこと。江戸時代には植木屋仁兵衛が作った見事な牡丹園があり、「西ヶ原牡丹屋敷」と呼ばれたということです。旧染井村から西ヶ原にかけて、植木関連の仕事をする方々が沢山住まわれていたことでしょう。
「旧古河庭園」では春と秋の薔薇の季節は「バラフェスティバル」が行われており、私たちが入場した時期はちょうど春バラと洋館のライトアップが予定されていたので、かなりの賑わいでした。人波に流されながら洋風庭園の階段を下り、高低差を利用した大滝や心字池を散策しました。そして人混みを縫うようにしながら洋館前の薔薇園を鑑賞しました。目敏くちょっとしたスペースを見つけてジョサイア・コンドル作の洋館(大谷美術館管理)前で記念写真(写真下右)を撮ってもらいました。
全ての行程を歩行して、さて、いよいよ打ち上げです。今回の打ち上げ会場は、島田くんが休日出勤をしてから参加するということなので、交通の便の良い上野駅前の「大地の響き」にし、旧古河庭園の最寄り駅である上中里駅から京浜東北線に乗車して上野駅に移動しました。今回の自主トレは半日でしたが、江戸情緒を忍ばせる場所を巡る楽しいウォーキングでした。
御茶ノ水駅前 旧古河庭園洋館 【撮影】佐々木くん(39組) 【報告】小久保(35組)
●手賀川・キリンビール工場見学編(平成28年7月10日開催)
コース:JR成田線 湖北駅~手賀沼曙橋~手賀川堤防~布佐駅=(成田線・常磐線)=取手駅=
(昼食)=(バス)=北中原~キリンビール取手工場=(バス)=取手駅=(常磐線)=
牛久駅~シャトーカミヤBBQ(打ち上げ) 約10キロ
参加者:川島(旧姓唯根)さん、汀くん(以上34組)、小久保(35組)、高沢くん、
飛田くん(以上37組)、堀米(旧姓坂本)さん(38組)、飯村くん、堀之内くん、
佐々木くん(以上39組) 合計9名
概要: 暑い季節なので今回のウォーキングは距離を控えめにして、終了後によく冷えた美味しいビールを一気に飲み干す前の準備運動としての自主トレとしました。今回はキリンビール取手工場見学がメインです。この工場では試飲で3種類のビールを飲むことができますが、レストランは併設されていないため、試飲後に取手駅から牛久駅まで移動して、シャトーカミヤでの「地ビール飲み放題プラスBBQ」とのセット企画です。
では何処をウォーキングするかが問題です。取手駅に接続できそうなウォ-キングスポットはなかなか思いつきません。あれこれ思案していたそのとき、堀之内くんから「もう一度手賀沼を歩きたい」という希望を出されていたことを思い出しました。前回の手賀沼での自主トレは2010年3月の開催でした。例えば午前中は手賀沼周辺を軽く歩いて、お昼は取手駅というルートはどうでしょう。
路線バスの時刻表を調べた結果、成田線湖北駅から手賀沼まで歩き、利根川への放水路となっている手賀川の堤防を布佐(ふさ)駅まで進み、さらに利根川に架かる栄橋を渡り、そして小貝川に架かる戸田井橋まで歩けば、取手駅まで行く路線バスに乗車できることを見つけました。某テレビ局の路線バスの旅番組のような企画ですが、路線バスに乗り遅れるリスクがあるので、遅れそうな場合は途中の布佐駅から電車で移動する代案も検討しておきました。
当日の朝は梅雨曇りだったため涼しい気候を期待しましたが、残念ながら晴れて暑くなる予報です。湖北駅には我孫子駅から電車で移動した男性7名と、ご主人に自家用車で送ってもらった川島さんの計8名が予定時刻(9時30分)前に集合しました。堀米さんは午前中に用事があるので、キリンビール取手工場見学からの参加です。
湖北駅周辺は成田街道沿いに住宅が点在する長閑な所…かと思っていたら、大きな間違いでした。昭和45(1970)年から住宅都市整備公団(現:独立行政法人都市再生機構:UR)によって大規模開発が行われたのを切っ掛けに、多くの場所が宅地化されていました。しかし手賀沼周辺には食事ができるところがなさそうだったので、念のため駅前のコンビニで簡単な食べ物を購入してもらい、出発です。
UR団地に隣接した湖北台中央公園は野球場やテニスコート、健康遊具、芝生広場があり、スポーツや憩いの場のようです。周辺の分譲住宅地もケヤキ並木が綺麗に整備された良い住環境となっていました。湖北台中学校入口の交差点を右に曲がり、200メートルぐらいで左に折れ、田圃の中の一本道を歩きました。1キロメートル弱で手賀川(手賀沼を水源とする河川)にでました。300メートルぐらい手賀沼方面に歩くと、手賀沼フィッシングセンターがあり、ここは前回の手賀沼一周自主トレの時に休憩を取った場所です。
手賀沼の水門となっている手賀曙橋を渡り、浅間橋まで堤防を歩きました。浅間橋付近には江戸時代に手賀沼の東半分の干拓を試みた千間堤があったということです。堤防なので日影がなく非常に暑いため、浅間橋の橋げたの下の涼しいところで少し休憩を取りました。休憩後、また歩き出しましたが、手賀川の堤防はほぼ真っすぐのため、いくら歩いてもほとんど前進していないかのような感じがしました。最初は先頭を歩いていた佐々木くんですが、暑さのせいか、だんだん遅れだして、今ではかなり後方を歩いています。堤防は下手賀沼からの合流点で少しカーブを描くだけで、約6キロの直線で、しかも、周囲の田園風景の変化もありませんでした。
このコースは疲れる!
変化といえば、異様に大きjulく、プラント工場のような「手賀沼終末処理場」がありました。手賀沼流域7都市57万人分の汚水を処理し、利根川に放流しています。その処理場の先に東屋を見つけたので、再び休憩をとることにし、遅れたメンバーが揃うのを待ちました。
それにしても今日は暑い!
休憩後、堤防の道から離れて、我孫子東高校の前を通って、成田線を渡り、布佐駅に到着しました。しかし予定時刻よりも大きく遅れていて、まもなく正午でした。この暑さの中で予定のルートに沿って戸田井橋まで歩くと、昼食抜きで歩いても何とか予定のバスに乗車できるかどうかという状況でした。そこで代案の成田線、常磐線と乗り継いで取手駅に行くことを選択しました。これならば取手駅でゆっくり昼食が取れ、工場見学の時間にも余裕をもって間に合います。最初からそのコースのほうがよかったかもしれません。
コースの変更を説明すると、参加者は大喜びで合意してくれました。程なく我孫子行きに乗車し、我孫子駅で常磐線に乗り換えて取手駅に到着、これでゆっくりお昼を食べられます。100円からグラスワインが飲めるサイゼリヤが「ボックスヒル取手」(JR東日本とアトレが共同開発した駅ビル)で営業しているので向かいました。ところがこの選択が大失敗、参加者の名前を注意深く見てください。お昼の時間がたっぷりできたので、若干飲みすぎになりそうな方がでてきました。ここで酔いつぶれれば以降の予定が狂います。仕方がないので、取手駅のバスターミナルで待ち合わせをしていた堀米さんに事情を連絡し、早めに切り上げて一足早くキリンビール取手工場に向かうことにしました。
取手駅から「JAとりで総合医療センター」行き関東鉄道バスに乗車しました。川島さんは取手に住んでいたことがあるということで、この付近の地理に詳しく、キリンビール工場への路線バスのルートやバス停名称をよく知っていました。私たちは「北中原」というバス停で降りるはずでしたが、運転手さんが通過してしまいました。どうやら「次の停留所案内のボタン」を運転手さんが押すのが遅かったため、通過後に案内が流れたということでした。当然ですが、バスは「北中原」のバス停まで戻り、無事、降車できました。堀米さんは午後2時発のバスでこちらに到着する予定なので、先に8人で受付を済ませ、クーラーの良く効いた会議室で待ちました。
涼しい!
見学予約時刻の2時30分前に堀米さんが到着し、9名全員が揃いました。まずは工場見学。「糖化」⇒「麦汁」⇒「煮沸」⇒「発酵」⇒「ろ過」の工程を経てビールができます。私たちを案内してくれた方は「ビール好き」と自慢するだけあって、特大ジョッキが似合う案内係でした。キリンの売りは「一番搾り麦汁だけ」を利用する点ですが、「二番絞り麦汁」との違いが分かりやすく説明されていました。最後に構内バスに乗って、ビールを缶に詰めて出荷する工程まで見学しました。そして、いよいよビール試飲です。私たちのときは、通常の「一番搾り」と「一番搾りプレミアム」、そして地域限定の「一番搾り千葉づくり」の3種類の試飲ができました。乾杯!
試飲後、お土産をそれぞれ購入し、キリンビール取手工場から取手駅に戻りました。残念ながら佐々木くんは所用でBBQは不参加でした。佐々木くんと取手駅で別れ、私たち8名は常磐線に乗り牛久駅まで移動しました。牛久駅から歩いて10分ぐらいで「シャトーカミヤ」に到着しました。午後5時過ぎですがまだ明るいなかでBBQスタートです。飲み放題、食べ放題でひとり3,000円です。手賀川ウォーキングの準備体操が功を奏し、たくさん食べて、飲んで、楽しい時間を堪能できました。
キリンビール取手工場 シャトーカミヤBBQ会場
【撮影】佐々木くん(39組) 【報告】小久保(35組)
●筑波山白雲橋編(平成28年9月18日開催)
コース:TXつくば駅=(シャトルバス)=筑波山神社入口~(白雲橋コース)~女体山~
御幸ヶ原(昼食)=(ケーブルカー)=筑波山神社入口=(送迎バス)=
筑波山温泉つくば湯=(送迎バス)=筑波山神社入口=(バス)=TXつくば駅
参加者:島田くん(33組)、川島(旧姓唯根)さん(34組)、小久保(35組)、海老澤くん、
木本くん(以上38組)、中庭くん、堀之内くん(以上39組) 合計7名
概要: 当日朝、私の住む飯能から筑波に向かう電車の中で川島さんから早々に「柏では雨が降り出しました。」という連絡をいただきました。登山ですのでお天気がちょっと心配です。山手線、常磐線と乗り継いで、北千住駅でつくばエクスプレス(TX)の快速に乗車し、流山おおたかの森駅で川島さんと堀之内くんが乗車して合流。堀之内くんは前夜のお酒がまだ残っているようでした。筑波山は標高差が610メートルと大きいのでかなりきついのですが、大丈夫でしょうかね。
TXは茨城県に入りましたが、守谷駅付近の道路はまだ濡れていないようです。雨粒も車窓には吹き付けてはいませんが、遠くに見える筑波山は雲の中でした。スマホで天気予報を調べると、お昼にかけて雨が降るということ。まあ雨が強かったら、ゆっくり温泉につかって、のんびりしましょう、と考えている間につくば駅に到着しました。
つくば駅の地下ホームから、改札出口に移動すると、中庭くん、木本くんが既に到着しており、まもなく島田くんも合流。しかし、海老澤くんは?
海老澤くんの携帯電話にかけてもらいましたが、呼び出し音だけが続くということでした。
仕方がないのでバス停に移動すると、海老澤くんは既にバスに乗車していました。
これで全員集合!
筑波山神社入口のバス停で降車した時点では雨はまだ降っていませんでした。筑波山神社の拝殿で当日の安全を祈願し、記念写真を撮りました。
しかし、このころからとうとう小雨が降り出したため、リュックから雨具を取り出して着ました。
これで準備万端です。
筑波山神社拝殿隣の日枝神社と春日神社の脇を通り、階段を下りて狭い一般道に出ると、「女體山」(「體」は「体」の旧字体)の碑が出迎えてくれました。ここからかなり急な登り道です。道なりに100メートルぐらい登っていくと石の鳥居が見えました。ここが「白雲橋コース」の登山口。さらに石の階段を登っていくと、つつじヶ丘に出るハイキングコース「迎場コース」との分岐点となる酒迎場分岐に到着しました。
「白雲橋コース」の左側の登り坂を歩くと、少しして白蛇弁天という小さな社がありました。ここには白い蛇が住んでいるということで、白い蛇を見た者は財を成すのだそうです。残念ながら白蛇には出迎えてもらえませんでしたが、幸いにも登山道では小雨ままで強い雨にはならずにすみました。ただし、筑波山のWEB紹介に「筑波山の登山道の中でもかなり高低差のあるのが白雲橋コースです。しばらく森の中を登っていきますがめげずに頑張りましょう!」という記述があったのを思い出しました。
小雨の中、滑りやすくなっている岩をゆっくりと登って行きました。
ところが歩き始めてわずか数分で既に体が熱くなりカッパの中に熱がこもってきたため、小休止。見ると、堀之内くんの調子が良くないようです。まだ登り始めたばかりなので、堀之内くんには無理せずに筑波山神社まで戻ってケーブルカーで登ってもらうことにしました。
この判断は正しく、私たち残り6人は岩で滑りやすい登り坂を難渋しながら登ることになりました。山頂まで着いているはずの時間がかかっても、ようやく山頂までの3分の2ほどの「弁慶茶屋跡(2006年まで営業)」に到着するのがやっとでした。ここでちょうど12時になったので、おにぎりなどで簡単な食事をとりました。そのような過酷な中でも上記リンクにあるように木本くん、海老澤くんは要所で写真撮影をしてくれました。
さあ、食事で英気を養って、元気に再スタート!
ここからは「弁慶七戻り」「高天原」「母の胎内くぐり」「裏面大黒岩」「北斗岩」など奇石の名所が続きます。「弁解茶屋跡」から約1時間の悪戦苦闘が続きましたが、それでも何とか女体山山頂に到着。コースに記載されていた所要時間よりも1時間は余分にかかったと思います。それでも中庭くんは結構元気な感じでした。私は疲れていたせいか、山頂の濡れた岩で滑り、近くの石になんとかしがみつきました。後からの話ですが、川島さんも一度転びそうになったということで、島田くんは2回、転倒したとのこと。大事には至らなくてよかったです。
女体山山頂から降り始めると、私たちの前に30人ぐらいの奇石怪石ガイドツアー御一行様が陣取っていたので、ガマ石からセキレイ石まで大渋滞になっていました。御一行様の横をうまくすり抜け、カタクリの里を通って御幸ヶ原の売店に到着できたのは、午後1時30分をまわった頃でした。
お店に入って、まず手を洗って、汗と雨でぬれた顔を拭いて、ひと心地着いたところで堀之内くんに電話を掛けようとしましたが、電波が弱くすぐに切れてしまいました。代わりに川島さんのスマホで堀之内くんにかけてもらったところ、堀之内くんはケーブルカーでかなり前に御幸ヶ原に到着していたということで、すぐにお店にやってきました。堀之内くんは私たちを待っている間に御幸ヶ原から女体山までを散策したということで、筑波山を満喫したようです。
全員がまた揃ったところで、みんなで暖かい「筑波うどん(そば)」を食べ、疲れを癒しました。
私たちが御幸ヶ原に到着した頃はまだ小降りでしたが、昼食を食べている間にお店の外を眺めると本降りとなっていました。そこで予定していた男体山や山頂周辺の自然研究路の歩行は取りやめて、ケーブルカーで下山して「筑波山温泉つくば湯」で暖まることにしました。こんな雨の天気でしたが、筑波山頂駅には大勢の乗客が待っていました。ただし増発運転で対応していましたので、さほど待たずに乗車することができました。ケーブルカーを降りて筑波山神社に着く頃には雨は再び小降りとなっていました。たぶん山頂だけ本降りだったのでしょう。
事前に携帯電話で「つくば湯」に迎えを依頼しておいたので、「つくば道」終点の歩道橋のところでマイクロバスに乗車することができました。ゆっくり温泉につかり、冷えた体を温め、お休み処で記念写真を撮りました。
筑波山神社入口バス停へ向かう次の送迎バスは3時50分ということなのでちょっと慌ただしかったのですが、身支度を整えて送迎バスに乗車しました。筑波山シャトルバスが来るまでの間にバス停脇の売店でお土産物を買いました。今回利用した「筑波山あるキップ」の特典を川島さんがお店の人に確認すると、「1,000円以上のご利用でガマ人形を差し上げます」ということで、金銀のガマ人形をもらっていました。私はそのすぐ後ろに並んでいたためか、購入金額が1,000円以下にもかかわらず、お店の人から金のガマ人形を貰いました。なんか得した気分。
4時10分発のバスでつくば駅に戻り、駅の近くの「北海道直送漁鮮水産」で打ち上げを行いました。今回は雨でかなり難渋しましたが、「白雲橋コース」で筑波山を登り切りました。苦しかったので、かえって記憶に残る自主トレになりました。
筑波山神社拝殿 筑波山温泉つくば湯 【撮影・報告】小久保(35組)
●八王子城跡編(平成28年11月23日開催)
コース:JR高尾駅=(西東京バス)=国史跡八王子城跡~
ボランティアによる案内で城跡内の居館地区を散策~城址ガイダンス施設(休憩)~
要害地区(山頂曲輪など)~ガイダンス施設=(西東京バス)=
高尾駅(昼食)~甲州街道(イチョウ並木)~八王子駅(打ち上げ) 約10キロ
参加者:石井くん(31組)、島田くん(33組)、川島(旧姓唯根)さん(34組)、小久保(35組)、
飛田くん(37組)、飯村くん、堀之内くん(以上39組) 合計7名
概要: 当日、待ち合わせの高尾駅前に向かう途中、偶然、高尾駅のホームで飯村くんと一緒になり、JR高尾駅から紅葉を求めて京王線高尾山口に乗り換える人波を避けながら、改札を出ました。この高尾駅には平成22年11月20日開催の自主トレで訪れたことがありました。その時は丁度「八王子いちょう祭り」の開催日で、甲州街道沿いのイチョウ並木が見事に色づいていました。その時の参加者で、しかも、今回も参加するのは石井くん、川島さん、堀之内くん、それに小久保でした。今回は飛田くんご希望の「国史跡八王子城跡」を見学した後、前回とは逆ルートをとり、高尾駅から八王子駅に向かって黄色い絨毯の甲州街道を歩く予定です。
飯村くんと私が改札を出ると男性陣は既に揃っていました。そして、いつも時間ぴったり集合の川島さんの到着でみんな揃い、駅北口の西東京バスの停留所に向かいました。ここから休日だけ運行の路線バスに乗車して「八王子城跡」に移動します。私たちを乗せたバスは、すぐに急坂を登り始め、くねくねと狭い道を曲がりながら、約20分で「八王子城跡」に到着しました。終点のすぐそばに「城跡ガイダンス施設」があり、八王子城の歴史や遺跡発掘の様子が展示されていました。
「城跡ガイダンス施設」で俄か勉強をしてから、ボランティアガイドの受付に行き、「居館地区」にある御主殿跡などを案内してもらいました。なんと日本庭園と推定される遺構が発掘されたということで、当時はかなりの田舎であった関東の八王子に、雅な館が造られていたということでした。
八王子城の最後の城主は北条氏照公(北条氏政公の弟)ですが、天下統一を進める豊臣秀吉の関東制圧の一環で攻め込まれ落城した1590(天正18)年6月23日(旧暦)には小田原本城にいたため不在で、僅かな守備隊しか残っていなかったということです。そのため前田利家・上杉景勝の連合軍により完膚なきまでに攻められ、落城の折は御主殿の滝で籠城軍だけでなくご婦人方も多数が自害という過酷な歴史があったということでした。「八王子城跡」は現在も発掘中です。既に発掘されたところは埋め戻されて、地上部分に柱石などが置かれていました。八王子城跡の詳細はこちらのURLからご覧ください。
約1時間30分のボランティアガイドによる居館地区の丁寧な案内の後、再び「ガイダンス施設」に戻り、軽食と休憩をとりました。ここではゆっくり休みましょう。なぜなら、これから標高470メートルの「要害地区」(戦闘時の要塞地区)である山頂曲輪(本丸跡)まで歩いて登りますので。
休憩後、山頂へ向かう途中の管理棟で杖が用意されていました。かなりの登り道のようなので、それぞれの体格に合った杖を借りました。山頂への道を登って行くとだんだん狭くなり、筑波山ほどではありませんがちょっとした登山でした。山道での脱落が多い堀之内くんもしっかりとした足取りで登っていました。
「要害地区」への山道の途中には曲輪が設けられ、曲輪間は尾根伝いの道で繋がっていたということで、山城の防御の堅さが覗えました。登りは小一時間、ちょっとしたハイキングでした。ボランティアガイドの方に教えてもらった山頂付近の眺望が開けるところではスカイツリーが遠くに見えました。現在の山頂付近には「八王子神社」が祀られており、参拝したのち、その裏側からさらに登っていくと本丸跡(写真下左)に到着しました。飛田くんの杖を持つ姿は似合っていますね。本丸跡を見学後、下山してバスで高尾駅に戻りました。そして、ちょっと遅めのお昼を、川島さんリクエストの駅前の蕎麦屋さんで食べました。
午後は高尾駅から甲州街道のイチョウ並木を八王子駅まで、約6キロを歩いてから打ち上げを行いました。前週末の19、20日が「八王子いちょう祭り」だったのですが、1週間で場所によっては少し落葉したようです。幸いにも町田街道との交差点で見事に紅葉したイチョウ並木を背景に写真を撮ることができました(写真下右)。そして黄色い絨毯をガサガサと音を立てながら歩きました。イチョウ並木は陣馬街道との追分まで続きますが、私たちはその手前で西八王子駅方面に曲がり、中央線の線路に沿って八王子駅に向かいました。そして、新南町の交差点を右折して、八王子駅西放射線ユーロードの手前の「四季の舞(現在は「酒豪」に店名変更)」で打ち上げを行いました。晩秋の一日を、戦国時代の歴史に触れ、ちょっとしたハイキングと紅葉散策で楽しく過ごすことができました。
八王子城跡本丸跡 甲州街道沿いのイチョウ並木 【撮影・報告】小久保(35組)
●両国編(平成28年12月18日開催)
コース:JR両国駅・江戸NOREN(昼食)~両国力士像(国技館通り)~回向院~
旧両国橋・広小路跡~一之橋~江島杉山神社~吉良邸跡~勝海舟生誕の地~
芥川龍之介文学碑、生誕の地~江戸NOREN(休憩)~江戸東京博物館前~
徳川家康公銅像~葛飾北斎生誕の地~すみだ北斎美術館~
ちゃんこ江戸沢両国店(忘年会) 約4キロ
参加者:雨澤さん、石井くん(以上31組)、堂(旧姓飛田)さん、島田くん(以上33組)、
川島(旧姓唯根)さん、深津くん(以上34組)、小久保(35組)、木本くん、
江戸くん(以上38組)、飯村くん、堀之内くん、佐々木くん(以上39組)
ウォーキングは7名、合計12名
雨澤さん、石井くん、島田くん、江戸くん、佐々木くんは忘年会からの参加。
概要: 今回の企画提案者の飛田くん(37組)が当日朝の体調不良で残念ながら欠席となり、両国界隈ウォーキングの参加者は堂さん、川島さん、深津くん、木本くん、飯村くん、堀之内くん、小久保の7名となりました。
今回は11月25日に開店したばかりの「両国江戸NOREN」で集合し、川島さんと堂さんリクエストの「にほん橋やぶ久」で江戸蕎麦を食べました。12時30分と少しお昼時を避けたのが幸いして、僅かな待ち時間で入店できました。昼食後は両国界隈を歩いて、同じく開館したばかりの「すみだ北斎美術館」で葛飾北斎の「隅田川両岸景色図巻」を鑑賞します。
「両国江戸NOREN」には観光案内所が設置されており、両国界隈の観光ガイドマップが置かれています。散策に役立つ情報が盛りだくさんなので、人数分をGETして、いざ出発!
まず、国技館通りの両側に設置されている力士像を見学。全部で7体が数十メートルおきに点在しており、台座には歴代横綱の手形が納められ、その上に土俵入りの型をモチーフにした力士像が載せられています。力士像のところで記念写真(写真下左)を撮りました。力士像は思ったよりも小さく、傍に自転車が置かれたりしているので、気づかずに見逃してしまうかもしれません。
次は「回向院」。明暦の大火(1657(明暦3)年)の犠牲者を供養するために建立されました。境内には明暦大火の供養塔を始め、勧進相撲の定場所が開催されていた関係で歴代相撲年寄の慰霊の為に建立された「力塚」、さらにはねずみ小僧の墓などがありました。
回向院を後にして隅田川の方に歩き、イノシシ料理の「ももんじや」の角を左に曲がり、さらに少し歩くと旧両国橋跡がありました。当時、武蔵国と下総国の両国に架かる橋として「両国橋」と名付けられました。その西詰は、明暦の大火の後、火避け地として整備され、両国広小路と呼ばれ、江戸でも有数の繁華街になったということです。江戸時代の古地図によると両国橋を渡ると両国広小路があり、その直ぐのところに回向院があったという位置関係です。
次に堅川に架かる「一之橋」(忠臣蔵で赤穂浪士が泉岳寺に引き上げる際に最初に渡った橋として有名)を渡り、針治療で知られる杉山和一検校が江の島弁才天を勧請して開いた「江島杉山神社」を参拝しました。1866(慶応2)年に建てられた岩屋は江ノ島の洞窟を模しており、内部の正面には杉山検校の石像が祀られていました。
そして塩原橋を渡って本所に戻り、「本所松坂町公園」に行きました。ここは忠臣蔵で討ち入りされた吉良家の上屋敷跡で、当時は坪数2,550坪ありました。1934(昭和9)年、地元両国3丁目町会有志会が発起人となって「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、同年3月に東京市に寄附し、現在は公園として保存されています。ここでしばらく休憩をとりました。
吉良邸跡から両国小学校の脇を通り、両国公園にある「勝海舟生誕の地」を訪れました。この史跡では「勝海舟生誕の地」の碑や幕末の歴史がよく分かるパネルが展示され、楽しく歴史のお勉強タイムを過ごしました。両国駅に戻る道沿いには、芥川龍之介の文学碑や「生育の地」という説明版があり、深津くんが興味深げにしっかりと読んでいました。再び国技館通りで力士像を眺めながら両国駅に戻り、江戸NORENで小休憩しました。ここで堂さんの笑顔は入り口近くの甘味処に向けられているように見えましたが、ごめんなさい、トイレ休憩だけで「すみだ北斎美術館」に向けて出発としました。
まず両国駅の北側にある「江戸東京博物館」の敷地に入りました。ここは中央卸売市場江東市場跡地だということです。「江戸東京博物館」の外周を歩くと、歩道沿いに江戸を開いた徳川家康像がで~んと建っていました。そして、そのまま「すみだ北斎美術館」に向かおうとしましたが、堂さんのお疲れが気になっていたのでスマホで付近の甘味処を検索すると、近くに「両国茶房」というお店が見つかりました。清澄通りの都営大江戸線両国駅からすぐ近くというスマホの御宣託なので、行ってみることにしました。しかし、残念ながらそのお店は「両国湯屋『江戸遊』」の中にあるということで、今回は入ることを断念しました。
江戸時代から昭和初期まで、都営大江戸線両国駅付近には「南割下水(みなみわりげすい)」が水路として掘られていました。しかし工業化や洪水で割下水は次第に荒れ、1931(昭和5)年までには全て埋め立てられたということで、現在は「北斎通り」と名付けられています。北斎通り沿いに歩くと「緑町公園」があり、その一角に葛飾北斎生誕の地がありました。また、この緑町公園の敷地には2016(平成28)年11月22日にオープンした「すみだ北斎美術館」もあります。建物の設計者は一高の先輩にあたる妹島和世さん(S50卒)です。
今回は「すみだ北斎美術館」の開館記念展「北斎の帰還-幻の絵巻と名品コレクション-」を鑑賞しました。メインはフランスから約100年ぶりに帰還した「隅田川両岸景色図巻」です。舟で柳橋から隅田川を遡り、新吉原遊廓に向かうまでの風景を6メートル以上の絵巻として描いています。江戸情緒にじっくりと浸れるひとときでした。
すると佐々木くんからメールがあり、打ち上げのお店でもう待っていますということでした。まだ午後5時前なので開始には30分以上あります。早いですね。ではそろそろ忘年会会場の「ちゃんこ江戸沢両国店」に移動しましょう。美術館の外に出ると既に夕暮れ。公園の木々がライトアップされており、とても綺麗でした。
「ちゃんこ江戸沢両国店」は両国駅のホームからよく見えるところにあります。雨澤さんと江戸くんからは少し遅れるという連絡がありました。しかし江戸くんは何とか時間ぎりぎりに到着できたので、江戸くんの乾杯で宴を始めました。本日の忘年会からの参加者は、雨澤さん、石井くん、島田くん、江戸くん、佐々木くんで、両国界隈ウォーキング隊と合わせて総勢12名となりました。飛田くんが欠席のため、一人分多い13人分の本場ちゃんこで満腹となり、一高時代の通信簿の話などの昔話で盛り上がりました。水戸から参加の堂さんは少し早めに帰宅されましたが、お開きの時に記念写真を撮ってもらいました(写真下右)。
国技館通り力士像 忘年会(ちゃんこ江戸沢両国店)
【撮影・報告】小久保(35組)
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