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第9回「復活・歩く会」合同自主トレ総集編

【イベント報告】掲載:平成28年2月14日

● 石神井公園編(平成27年1月18日開催)

コース:西武池袋線大泉学園駅~石神井公園~練馬~江古田の森公園~哲学堂公園~
    新井薬師~JR中央線中野駅 14キロ
参加者: 島田くん(33組)、柴田さん、汀くん(以上34組)、修、小久保(以上35組)、
    高沢くん、飛田くん(以上37組)、堀米(旧姓坂本)さん(38組)、
    佐々木くん、飯村くん、堀之内くん(以上39組)。   合計11名
概要: 新年第一弾の自主トレは新井薬師を参拝して、一年の健康や幸福を願掛けするルートとしました。今回の集合場所は(高沢くんの参加を意識したわけではありませんが)皆さんに練馬区がアニメの区として有名であることを体験してもらおうと、アニメーションの草分け「東映動画」があった大泉学園駅を選びました。大泉学園駅には「日本アニメ発祥の地」と書かれた記念碑が設けられており、おなじみの「銀河鉄道999」の「車掌さん」オブジェが待っています。またホームの発着合図にも「銀河鉄道999」の歌が使われています。しかし59年前に設立された東映動画は東映アニメーションという社名に変わり、現在、建て替えのため光が丘に仮移転しています。アニメーションギャラリーなどの施設も現在は閉館中で、新館が完成予定の3年後に大泉学園でリニューアルオープンする予定です。
 今回は柴田さんが久しぶりの参加です。また当初の連絡では都合が悪く欠席予定だった島田くんは大泉学園駅から石神井公園までの短い区間ですが一緒に歩いてくれました。集合時刻の10時30分に予定の10名が揃ったので出発しようとしましたが、堀米さんから「堀之内くんが参加予定メンバーのリストに入っていなかったので昨日声をかけたら、参加すると言っていました。」とのこと。少し待つことにしました。ほどなく堀之内くんも現れて、さて石神井公園に向けて早速スタート・・・となるはずでした。
 ところが、佐々木くんから要望が出されました。電車の中から見えた富士山が都心から見るよりも大きく、そのうえ雪で白くなっていてとても綺麗だったので是非写真を撮りたいと。そこで、何処か高い建物はないかと大泉学園駅周辺を探しました。駅前の商業施設「ゆめりあフェンテ」に入ってみましたが、残念ながら西側の富士山方向の眺望は開けておらず、仕方がなく富士山撮影は断念しました。当日は青空に富士山が大きく映える、とても気持ちの良いウォーキング日和でした。
 大泉学園駅から西武線の線路伝いに東京方面に少し歩き、そこから南に学芸大付属小中学校付近の静かな住宅街を抜けると、石神井公園の緑が見えてきました。道路から一段低くなっているところがかつて武蔵野三大湧水のひとつであった三宝寺池です。面積が約24,000㎡、水深が平均約2mの大きな池です。残念ながら、現在は湧水量が減少し、井戸で汲み上げた水を引き込んでいるということです。池の周囲は綺麗に木道が整備されており、地元の皆さんが散策していました。池の中に小島があり、そこに厳島神社が建立されていました。島田くんは所用があり石神井公園までの参加なので、厳島神社の東屋で記念写真(写真下左)を撮りました。撮影後に東屋を出て、次は「石神井城址」に行きましょうと言っているさなか、東屋のほうから「**さん、忘れ物!」という大きな声が聞こえました。忘れ物しないでよかったですね。
 石神井城は平安時代から室町時代にかけて豊島氏の居城だったところです。この地の池と川という自然の地形を利用して造られた平城ということです。この石神井城址は通常は文化財保護のため閉鎖されているようです。豊島氏は1477年に太田道灌との戦いで滅亡することになりますが、その時に三宝寺池に入水した豊島泰経とその娘・照姫を祀った「殿塚・姫塚」があり、「照姫まつり」が開催されています。
 石神井城址を包む木立を抜け、次の目的地は「石神井公園ふるさと文化館」です。島田くんが「川島さんと二人で案内人を務める2月自主トレへの参加よろしく」との言葉を残し、ここでお別れとなりました。さて本日の昼食はこの施設に併設されている「むさしのエン座」といううどん屋さんです。まだ11時を少し過ぎただけなのでお昼には少し早い時間帯でした。しかし店内の混み具合を伺うと、もう既に満席でした。すかさず順番待ちリストに名前を記入して、少し早い昼食にすることにしました。その待ちリストでは2番目だったので直ぐに順番が来ると思いましたが、このお店はそんなに広くなく、10名全員同席は無理で、一度に2名、次に4名と、少人数の席が用意されました。結局全員が座れるまでには30分ぐらいかかりました。「糧(かて)うどん」がこの店のお勧めです。この「糧」とは主に茹でた野菜の具のことで、武蔵野では一般的な食べ方ということです。席に着くと、突き出しとしてうどんで作った“かりんとう”が出てきました。甘くてカリカリして美味しくいただき、直ぐになくなってしまいました。お客さんが席に着いてから茹で始めるということで、かなりの時間が経過して糧うどんが届きました。確かに、うどんにも糧にもこだわりがあるお店ならではの、つるっとした食感が生きた美味しさでした。
 昼食後は「石神井公園ふるさと文化館」の展示室を見学しました。
 土器のコーナーでは、高沢くんが割れた土器を元の姿に組み立てる土器復元ゲームにチャレンジしました。汀くんがちょっと手伝ったところもありましたが、規定3分に対し1分以上を残して完成。流石!
 また、練馬といえば大根、やはり練馬大根の展示がありました。柴田さんがボランティアの方に大根を吊るす縄掛けを教わり、見事完成。流石!
 また昭和の街並みコーナーでは、ラーメン屋さん、その前には懐かしいオート三輪、よく見かけた普通のお家の台所や居間、勉強部屋が再現されていました。赤い郵便受けのお名前は「柴田さん」だったような・・・。妙に親近感の湧く展示でした。堀米さんや柴田さんはその展示の一角の台所に上がりこみ、台所に置かれた小物を見ては“懐かしい”の連発でした。
 さらに、アニメ発祥の地にふさわしいアニメーション撮影装置も展示されていました。
 展示室を出て、10名がみな揃っているかどうか確認したところ、堀米さんが昭和時代にタイムスリップしたまま展示室の外に出てきていなかったので、直ぐに呼び戻して合流してもらいました。
 次は、石神井公園ふるさと文化館に隣接する練馬区立池淵史跡公園内に移築・復元された旧内田家住宅です。明治20年代初めに練馬区中村に建築された豪農の家だそうです。茅葺き寄棟造りの堂々とした外観、立派な大黒柱や微妙な曲りの梁に加え、大広間の天井は囲炉裏がある部屋よりも格段に高く、意匠を凝らしており、お客様をもてなすためだったという説明をボランティアの方がしていました。
 旧内田家住宅を後にして、石神井公園のもう一つの池である石神井池を散策し、石神井川に出ました。石神井川は小平市花小金井南町にある小金井カントリー倶楽部敷地内から始まり、練馬区、板橋区を経て隅田川に流れる全長25キロの河川です。しかし石神井公園の2つの池からの水が合流しているわけではないということです。この石神井川の両岸は桜並木になっており、桜の季節はさぞ賑わうことでしょう。
 石神井川が西武池袋線の高架と交差するところで今度は東に向きを変え、線路伝いに歩くと練馬高野台駅を過ぎました。大泉学園駅から2駅分を歩いたことになります。さらに歩くと、突然救急車のサイレンが聞こえだし、こちらのほうに近づいてくるようです。続いて消防車も私のすぐそばに停車したかと思うと、すぐに隊員さん達が活動を始めました。一体何事かと見ていると、柴田さんが後方から「すいませ~~ん」と声をかけてきました。もしやメンバーに何事かが起こったのか。直ぐに後ろを振り返ると、「***を買ってもいいですか?」と柴田さんの声が続きました。何事もないということでほっと一息。まあ、ついでに小休止としましょう。するとちょうど立ち止まった商店街のビルのシャッターに書かれた「手塚治虫氏と越後屋ビル」という記述が眼に止まりました。なんと、まさにその場所が1970年代に手塚プロダクションが置かれていたところということで、アニメ発祥の地の練馬区ならではの名所の存在にびっくりしました。
 偶然の小休止を終え、さらに西武池袋線に沿って歩き、大泉学園駅から5つ目の練馬駅に到着しました。この練馬駅1Fにある西友で再び休憩しました。十分に体力を取り戻し、ここ練馬駅から進路を南にとり、ゴールの中野駅を目指します。環状七号線のガード下を潜り、少し歩くと、こんもりと木が茂る「江古田の森公園」に到着しました。ここは旧国立療養所中野病院の跡地を公園に整備した場所で、中野区で最大規模の樹林が残っており、貴重な武蔵野の面影を残しています。またこの公園には、日本から米国ワシントンに送った桜の返礼としていただいたハナミズキの木が「ハナミズキの丘」として植樹されていました。江古田の森公園を出て、総合東京病院に沿って歩くと、マンションでも建築しているのか、大規模な工事が行われていました。
 次は「哲学堂公園」を目指します。哲学堂公園は哲学者で東洋大学の創立者である井上円了博士によって明治37年に創設された公園で、哲学世界を視覚的に表現し、精神修養の場として整備した個性的な公園です。この場所は源頼朝の重臣である和田義盛の城址だったということで、小高い丘になっています。残念ながら公園の一部が工事中でしたが、急な階段を登って、6人の東洋哲学人(日本の聖徳太子・菅原道真、中国の荘子・朱子、印度の龍樹・迦毘羅仙)を祀る「六賢台」(明治42年建立)などの古建築群を見ることができました。
 次は「新井薬師梅照院」です。哲学堂公園から中野通りを南下し、西武新宿線を渡ると、左手に新井薬師公園があります。その公園の中を抜けると新井薬師梅照院の参道に入ることができました。この新井薬師は、眼病治癒の「目の薬師」、あるいは、秀でた小児薬を調整したことから「子育て薬師」と呼ばれるようになったということです。メンバーの中にも、最近、お孫さんが生まれるなどの話がありましたので、すくすくと健やかに育つことを祈念しました。そして新井薬師境内で記念写真(写真下左)を撮りました。
 新井薬師から再び中野街道に戻ると、間もなく中野駅。打ち上げは中野サンプラザの北側にある「でめきん」というもんじゃ焼きのお店です。柴田さん、高沢くん、堀之内くんが各テーブルで競い合うようにもんじゃ焼きや焼きそばを調理してくれました。そしてハイボールをおかわりする飛田くんへの対抗心か、高沢くんが大好物のかき氷を何杯もおかわりしていました。今回の打ち上げ開始は早く午後4時ごろでしたので、まだ午後7時前でしたがお開きとなり、JR中野駅からそれぞれ帰宅しました。

 

石神井公園三宝寺池の東屋            新井薬師     

【撮影:佐々木(39組)・報告:小久保(35組)】



● 平塚編(平成27年3月21日開催、当初予定の2月22日が雨天のため延期)

コース:平塚駅~旧東海道平塚宿~花水橋(広重絵のポイント)~化粧(けわい)坂~ 大磯宿~
    (ちょっとだけ)小淘綾(こゆるぎ)の浜~大磯松並木~昼食(松濤庵)~
    高麗山公園(湘南平~浅間山~高麗山)~高来(たかく)神社~
    「湘南天然温泉 湯乃蔵ガーデン」(打ち上げ)=(バス)=平塚駅 (約16キロ)
参加者:島田くん(33組)、川島(旧姓唯根)さん(34組)、小久保(35組)、
    高沢くん(37組)、酒井(旧姓武石)さん、堀米(旧姓坂本)さん(以上38組)
    合計6名
概要: 今回の案内人は島田くんと川島さんです。お二人とも街道を歩くのが趣味とのことで、既に東海道は制覇したという猛者です。しかし懸念された島田くんの雨運により当初予定の2月22日はやはり雨。もちろん準備全般にぬかりのない島田くんは、なんと開催2日前の2月20日夜には雨天延期を決断し、今回の3月21日(土・祝)の開催となりました。2月の時点で参加予定だった飛田くん(37組)、飯村くん(39組)には、延期後の日程での都合が合わせられず、申し訳ありませんでした。
 最近のトピックスは3月14日の上野東京ライン開通ですが、今回のジョーバンズの女性陣は出来立てほやほやの線路を使って湘南の地に来てくれました。上野駅の地上階ホームから2階ホームへ3分で乗り換えたとのこと。若いですね!そして予定通り平塚駅に10時40分に全員が集合し、有名な七夕飾りが飾られている駅構内を抜けて平塚駅北口から出発しました。北口を出ると直ぐに平塚駅前交差点があり、ここから旧東海道を京都方面に“上り”ました。今日は曇り空でどんよりとしていますが、まさか降らないですよね…島田くん。
 旧東海道に面した商店街はアーケードになっており、アーケードの屋根をよ~く見ると七夕飾りが吊るせるようにフックが付いていました。この商店街は「湘南スターモール商店街」と呼ばれ、歴史のありそうなお店から流行のファッショナブルなお店まであり、かなり賑わっていました。スターモール商店街を少し歩くと平塚宿の江戸からの入り口である「江戸見附」跡がありました。場所は平塚市民センターの隣で、現在は市営駐車場となっています。
 平塚は昭和20年7月の空襲により甚大な被害を受けたため、残念ながら江戸時代以前の建物は何も残っていないということでした。そのため平塚市では「景観重点区域 歴史軸の取組み」で昔ながらの町並みを復興しようとしているとのことです。島田くんは若い時に数年間平塚に住んでおり、土地勘があるということです。
 「江戸見附」跡から平塚宿の中に入り、「脇本陣」跡、「高札場」跡、「本陣」跡、「問屋場(といやば)」跡の順に巡りました。それぞれの跡地には名称を記した碑が立っていました。「問屋場」跡からは側道となり大通りから逸れますが、こちらがもともとの街道ということです。現在の国道1号との交差点を左折して80メートルぐらいのところに「古花水橋」という交差点があり、この場所から高麗山を見た風景画が広重作東海道五十三次の「平塚 縄手道」です。この地には、現在は暗渠となっていますが、宿場の境として花水川が流れていたとのことです。ここは江戸時代に平塚宿の京都からの入り口「京方見附」があった場所です。ここで広重と同じ構図に合わせて、記念写真を撮りました(写真下左)。
 さらに300メートルぐらい京都方向に歩くと現在の花水橋となります。縄手道とは「田んぼの中を長く続く畦道」のことで、道路が整備された現在ではこの道が畦道だったとは想像できません。そして花水川を渡ると高麗山が大きく見えるようになってきました。すると高麗山を霊域として祀る高来(たかく)神社が見えてきました。島田くんから、当日のコースは、まずは大磯に向かい、お昼を済ませてから湘南平高麗山のハイキングという説明がありました。
 広重が平塚の次に描いた浮世絵は「大磯 虎ヶ雨」です。これは曽我兄弟の仇討で有名な曽我十郎とその恋人の虎御前との悲恋を題材にしています。先ほどの高来神社を過ぎると、虎御前も化粧をしたと伝えられる井戸がある化粧坂(けわいざか)に差し掛かります。江戸時代にはここは並木で、一里塚もあり、松並木の一部は現在も残っています。広重は「大磯 虎ヶ雨」を大磯宿の入口にあたる化粧坂から下り始めた場所から描写したということです。この浮世絵の副題「虎ヶ雨」とは、曽我十郎が仇討ちの果てに旧暦の5月に命を落としたことを悲しんだ虎御前の涙に由来し、梅雨時にしとしと降る雨のことを「虎ヶ雨」と呼ぶようになったということです。
 さらに旧東海道に沿って歩き、東海道線のガードを潜り海側に出ました。そして街道沿いにしばらく歩くと「鴫立沢」という地名がありました。西行法師の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」に因んだ場所で、西行法師を慕った崇雪(そうせつ)という外郎(ういろう)売りがこの地の沢を「鴫立沢」に見立てて小さな草庵(鴫立庵)を建てたことが始まりということです。またここが「湘南」という名称の発祥の地だそうです。
 「鴫立沢」を過ぎて、街道から逸れ、小淘綾(こゆるぎ)の浜を目指します。このころからポツポツと雨が降り出してきました。まさに「虎ヶ雨」。すかさず島田くんはコースを変更し、国道1号のバイパス沿いに少し歩いただけで小淘綾の浜には出ず、元の国道に引き返し、伊藤博文の別邸だった「滄浪閣(そうろうかく)」跡の前を歩きました。もう12時をかなり過ぎていました。雨が降りだしているので早くお昼にしましょう。滄浪閣跡から大磯松並木を急ぎ足で歩き、「松濤庵」(写真下右)に到着し、それぞれ好みのお蕎麦を食べました。ここで川島さん秘蔵の(「永谷園のお茶漬け」に付いてくる)「東海道五十三次カード」が披露されました。ご本人の言によると、持参したのは予備のほうで、もう一セットは開けずにとっている真の秘蔵品とのこと。凄腕のお茶漬けマニアであることが分かりました。
 広重の「東海道五十三次カード」の鑑賞と昼食に1時間ぐらいかけました。「虎ヶ雨は?」と外の様子をうかがうと、道路は濡れていますが、幸いにも強い雨は通り過ぎたようです。午後は「湘南平」と「高麗山」へのハイキングです。先ほどの雨で足元が悪くなっているので、滑らないよう注意しながら歩きました。湘南平は標高181メートルで、頂上には電波塔とレストラン展望台がありました。電波塔は「恋人同士の名前を書いて施錠する南京錠」の発祥の地だそうです。レストランは休業中でしたが、その上の展望台には登ることができました。しかし残念ながら曇り空で、海のほうも山のほうも眺望は利きませんでした。
 次は「高麗山」を目指します。湘南平から直線距離で1キロぐらいですが、登り降りとも結構きつく、45分ほどかかって到着しました。高麗山からの下り道は男坂と女坂に分かれます。完璧に下見をしている島田くんが「男坂を下りるのは無理」と女坂を選びました。高麗山山頂から25分で高来神社まで下りました。島田くんは高来神社からは路線バスを使って「湘南天然温泉 湯乃蔵ガーデン」に移動して、移動時間を稼ごうと考えていたのですが、高来神社から道路に出たところで無情にもバスが通過してしまいました。そのため、さらに1時間ほど歩くことになりました。
 夕やみ迫る中、「湘南天然温泉 湯乃蔵ガーデン」に到着し、ゆっくりお風呂に入りました。入浴後、お休み処で打ち上げを行いました。幸いにもここから平塚駅までは路線バスがあり、湯冷めせずに帰路に就くことができました。晴れなかったのは残念でしたが、東海道の歴史に触れることができた楽しい一日でした。

 

      古花水橋から見た高麗山              松濤庵     

【撮影・報告:小久保(35組)】

● 隅田川妖怪絵巻と都電荒川線沿線散策(平成27年4月5日開催)

コース:北千住~隅田川妖怪絵巻散策~三ノ輪橋=(都電荒川線)=王子駅前~(昼食)~
    飛鳥山公園~飛鳥山=(都電荒川線)=庚申塚~とげ抜き地蔵(高岩寺)~庚申塚=
    (都電荒川線)=学習院下~神田川~面影橋=(都電荒川線)=早稲田~打ち上げ
     
参加者:石井くん(31組)、佐藤(旧姓柳沢)さん、島田くん(33組)、
    川島(旧姓唯根)さん(34組)、小久保(35組)、酒井(旧姓武石)さん、
    堀米(旧姓坂本)さん(以上38組)、佐々木くん、堀之内くん(39組) 合計9名

概要: 堀米さんから北区王子の飛鳥山公園に設置されている「アスカルゴ」というモノレールに乗ってみたいという希望があり、4月上旬の花見に合わせて都電荒川線散策を計画しました。コース検討のため都電三ノ輪橋停留場付近の情報を探していると、千住・隅田川界隈には妖怪が住んでいるという記事を見つけたので、そのルートに沿って「妖怪絵巻」の散策も検討してみました。この妖怪絵巻の話が酒井さんから佐藤さんに伝わって、さらに「隅田川妖怪絵巻」のHPに掲載されている筑波大の市川先生(水戸一高卒)が、なんと佐藤さんのお知り合いのご子息ということで、話がトントン拍子に進みました。そして市川先生が北千住から都電三ノ輪橋停留場まで隅田川妖怪絵巻を紹介がてら案内してくださるということになりました。こういう偶然の経緯もあり、今回の自主トレには水戸・勝田方面から佐藤さんと酒井さんが参加してくれました。
 朝起きてみると、ちょっとだけですが雨模様で、残念ながらお花見には向いていません。私は地下鉄の乗り換えに手間取ってしまい、集合時刻の10時に5分位遅れて北千住駅に到着しました。その時には既に市川先生とお手伝いの学生さん、および、今回の参加者が揃っていました。北千住駅のコンコースに掲示された「祝上野東京ライン開業」のポスターのところで記念撮影を行いました(写真下左)。
 市川先生の案内で北千住駅西口を出て北へ歩きだしました。千代田線、常磐線、つくばエクスプレスの3線が荒川の鉄橋に差し掛かるちょっと手前に、最初の訪問地の長円寺がありました。長円寺に入るとすぐに六地蔵があり、枝垂れ桜が綺麗に咲いていました。また境内の奥には子育て祈願の子福稲荷の社がありました。そして長円寺の隣には眼病予防の目やみ地蔵が祀られ、「め・め」(左側の“め”が反転して、中央で対称になっています)と記された絵馬が奉納されていました。
 旧日光街道沿いは「北千住西口商店街(サンロード商店街)」となっており、「宿場町通り」と呼ばれています。先ほどの長円寺から旧日光街道に出ると、そこに千住絵馬屋「吉田家(よしだや)」がありました。現在8代目、今も手描きの絵馬を描き続けているということです。吉田家からは今度は南に歩き、千住大橋、南千住、三ノ輪橋を目指します。元ジョーバンズ(以前は柏、現在は都内に在住)の佐々木くんはこの街に詳しく、市川先生と学生さんに美味しいもの屋さんを解説していました。夜の街歩きでは市川先生たちよりも精通しているようです。
 商店街を歩いていると「千住お化け煙突」と書かれたショーウィンドウが見えました。「お化け煙突」って何?と、みんなでその場に立ち止まっていろいろな案を出して騒いでいると、中からわざわざおじさんが出てきてくれて、煙突の付いた模型を使って丁寧に教えてくれました。ここは「千住 街の駅」というお休み処で、足立区の街情報発信基地だそうです。おじさんの説明によれば「お化け煙突」とは大正15年に完成し、昭和39年に廃止された「東京電力千住火力発電所」の4本の煙突のことだそうです。4本の煙突は見る角度によって見える煙突の本数が2本、3本、4本と変わるため、そのようなあだ名がついたということです。
 宿場通りをさらに歩き、北千住駅前をすこし過ぎた千住二丁目の蕎麦屋「柏屋」のところで、市川先生が「閻魔さまがここのそばを食べに来ていたのです。」と解説してくれました。「近くの金蔵(こんぞう)寺というお寺に安置されている閻魔様ですが、お蕎麦の美味しい匂いに惹かれて、綺麗な女性に変身してやって来たということです。本当にお蕎麦の匂いが届くところなのか、行ってみましょう。」と線路のほうに向かって歩き出しました。だいたい金蔵寺までは100メートルでした。市川先生から頂いた明治12年の地図を見ると、街道を外れた金蔵寺の周囲は何もなかったようで、たぶん蕎麦の匂いも届いたことでしょう。このことにより金蔵寺は「蕎麦閻魔様」と呼ばれるようになり賑わいました。なかなかの宣伝上手です。しかし金蔵寺には天保の大飢饉での餓死者の供養塔や千住宿の遊女の無縁仏の供養塔があり、悲しい歴史も持っていました。
 再び旧日光街道に戻ると、「千住問屋場(といやば)・貫目(かんめ)改め所跡」がありました。このあたり、千住仲町が千住宿の中心だったようです。近くには高札場跡や一里塚跡があり、葛飾北斎が富嶽三十六景「隅田川 関屋の里」を描いた地ということです。
 屋根に見事な鬼瓦がある源長寺を過ぎると「千住河原町」に入ります。ここは、戦国時代後期(16世紀)から市場で賑わった「やっちゃ場」と呼ばれた所です。やっちゃ場の荷は江戸の神田、日本橋、京橋に送られたので、いわゆる中継基地のような機能を持っていたとのこと。現在は近くの東京都中央卸売市場足立市場に役割が移っています。
 千住大橋にさしかかるところに「奥の細道 矢立初めの碑」があります。平成21年1月11日開催の自主トレの時にも訪れたことがありました。ここで市川先生から「船で千住に到着した芭蕉が隅田川の北側で船を降りたのか、それとも南側で船を降りたのかという論争が起きており、いまだに決着していない」というお話を教えていただきました。どうでもよさそうなことですが、お膝元の「荒川区」と「足立区」では大問題なのだとか。また市川先生は千住大橋を渡るところで「亀の間」という話もしてくださいました。千住大橋の2番目と3番目の橋杭の間は「亀の間」と呼ばれ、この場所には成長し過ぎて出られなくなった大亀が住んでいたのだそうです。島田くんは特に神妙に話を聞いていました。
 この辺を仕事でよく利用するのか、堀之内くんが歩きながら何度も言っていましたが、千住大橋を渡りきると「荒川区」に入ります。ここからが江戸時代の御府内なので、ようやく江戸に入ったことになります。江戸に入ってまず訪れたのは「素盞雄(すさのお)神社」です。境内に大川(隅田川)の流れを再現し、隅田川にかかる千住大橋には「亀の間」も作られていました。その近くの案内板には、先ほどの芭蕉の千住南北論争が記載されていました。残念ながら論争のほうに興味を持つ参拝者はあまりなく、大勢の方々は鮮やかな紅白の桃の花が咲く中で綺麗に飾り付けられた雛人形に注目していました。
 素盞雄神社から道は二手に分かれ、一方は入谷・上野方面、もう一方は浅草に向かいます。市川先生は浅草方面に向かいました。道路の標示を見ると「コツ通り商店街」。謂れは旧地名の「小塚原(こつかっぱら)」から来ているということです。ここは日光街道で大変賑わった場所だったそうです。また、もうこの地名を聞いてお気づきの方もいるでしょう、ここは江戸時代の仕置き場だった場所です。市川先生によると南千住駅付近で常磐線が大きくカーブしているところが仕置き場だったということで、現在は小塚原回向院、延命寺があります。明治以降もここには住む人が少なかったということで、利用されずとり残されていたそうです。そのため常磐線が通ることになったということでした。
 次に南千住駅から南千住仲通り商店街を歩きました。この商店街はHPによると、「南千住駅から都電荒川線『三ノ輪橋』方面に向かう路地を結んだ場所で、どことなく懐かしさを感じさせる風情ある街並み。」だそうです。市川先生も久しぶりに歩くということで、「ここは変わっていない、ここは大きく変わってしまっていますね」と、懐かしそうに解説してくれました。先生のお話を聞きながら歩き、間もなく国道4号、日光街道に出ました。道路を渡ると三ノ輪橋の都電停留場です。三ノ輪橋停留場で先生と学生さんとお別れし、私たちは都電の旅に出発しました。楽しい妖怪絵巻散策、市川先生、どうもありがとうございました。
 次の課題は都電散策。とはいっても、腹がへっては・・・なので、まずは昼食です。都電王子駅前停留場で下車し、音無親水公園を過ぎ、約10分で「無識庵 越後屋」に到着しました。もう午後1時過ぎなので、皆さんお腹がすいているようです。私は辛味大根を使った「もぐら蕎麦」を目当てに行きましたが、残念ながら辛味大根がなかったので、普通のみぞれ蕎麦になってしまいました。
 ゆっくりと一時間休み、お腹いっぱいになってウォーキング再開です。まずは、王子神社を参拝しました。ここは1322年に領主豊島氏が紀州熊野三社から王子大神(伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱)をお迎えしたところで、王子の地名になった神社です。本殿までは結構な登り坂でした。こんもりとした森の中の静寂な神社でした。
 次は都電の線路の反対側にある飛鳥山公園です。幸いかどうかは微妙ですが雨模様だったのでお花見客は多くなく、ほんの少しの待ち時間で堀米さん待望の「アスカルゴ」に乗車することができました。山頂までの高低差18メートル、レール延長48メートルを2分で登ってくれました。飛鳥山は、日本の産業の礎を築いた一人である渋沢栄一翁の住まいを公園として整備したところで、明治6年に上野公園等と共に日本最初の公園として指定されました。飛鳥山には渋沢資料館(写真下右)や旧渋沢庭園があり、国の重要文化財に指定されている大正期の2つの建物「晩香廬(ばんこうろ)」と「青淵文庫(せいえんぶんこ)」が、当時のままの姿で残っており、特に大正時代のガラスのパッチワークが綺麗でした。
 もちろん飛鳥山はお花見の名所なので、あいにくの天気でなければ、お花見を楽しめたところでした。しかしこの天候でもビニールシートを雨よけ代わりに枝の間に張って、なんと小雨の中でも宴会を行っているグループもいました。また山頂には昔の都電6080型や蒸気機関車が展示されていました。飛鳥山から本郷通りに出て、飛鳥山のほうを振り返ると、走る都電の上に桜の花がピンクの帯のように輝いていました。
 都電飛鳥山停留場からさらに都電沿線散策を続けます。
 次の下車は庚申塚。巣鴨のとげぬき地蔵への最寄りの停留場です。とげ抜き地蔵がある高岩寺には平成20年22年に自主トレで訪れていました。段々ここを歩くのが似合う年頃になってきたでしょうか。お地蔵さんをお参りして、名物の「塩大福」をみんなで食べて、水戸・勝田に帰る佐藤さんと酒井さんは巣鴨駅に、都電沿線ウォーキングを続ける私たちは再び庚申塚停留場に向かいました。
 最後の途中下車は、神田川の桜並木を見ることができる学習院下停留場です。乗ってきた都電の進行方向に少し歩くと、神田川に架かる高戸橋です。午後5時過ぎなので少し暗くなってきていましたが、神田川両岸に桜が咲いているのが見えました。高戸橋から神田川沿いに桜並木を歩き、面影橋に到着しました。面影橋歌のタイトルとしても知られていますが、安藤広重の「名所江戸百景・高田姿見のはし俤(おもかげ)の橋砂利場」の画題にもなっている有名な橋です。ここから終点の早稲田までは歩いても近いのですが、終点まで都電に乗っていこうと、面影橋から乗車しました。
 早稲田停留場に到着した時は午後6時近かったので、近くで打ち上げ場所を探しましたが、早稲田大学は翌日に入学式を控えているということでまだ休みのため、なかなか開いているお店は見つかりません。15分ぐらいうろうろしましたが、幸いにも「幸せの時間」という居酒屋が営業しており、打ち上げを行うことができました。

 

     祝上野東京ラインの北千住駅         飛鳥山公園、渋沢栄一記念館前 
      (後列左から3人目が市川先生)    

【撮影:佐々木くん(39組)・報告:小久保(35組)】

● 東横フラワー緑道から横浜編(平成27年5月31日開催)

コース:東横線東白楽駅~東横フラワー緑道~横浜駅~桜木町駅~野毛山公園~
    日ノ出町(昼食)~長者町~根岸森林公園~根岸駅(16キロ)
     
参加者:石井くん(31組)、島田くん(33組)、川島(旧姓唯根)さん(34組)、
    小久保(35組)、高沢くん、飛田くん(以上37組)、堀米(旧姓坂本)さん、
    木本くん、海老澤くん(以上38組)、飯村くん、堀之内くん(以上39組)、合計11名

概要: 東横線がみなとみらい線の開業(2004年2月)に伴って接続運転を行うこととなったため、反町(たんまち)駅と横浜駅が地下化され、2004年1月末に線路跡地となった東横線東白楽~横浜間(1.4キロメートル)が「東横フラワー緑道」として整備され、2011年に完成しました。今後、完全廃線区間となった横浜駅~高島町駅~桜木町駅間(1.8キロメートル)も遊歩道として整備される予定だそうです。今回は東白楽から東横フラワー緑道を歩き横浜駅へ向かい、廃線区間の横浜駅から桜木町駅を経由し、さらに野毛山公園に入り、日ノ出町、長者町、石川町と横浜の中心街を歩き、旧競馬場だった根岸森林公園を経て、根岸駅まで歩きます。
 東横線の東白楽駅に定刻の10時30分に全員が集合し、線路伝いに南に歩き出しました。すると東横線の線路はだんだん下がっていき、間もなく地下区間に入ります。一方、線路脇の側道は少しずつ上って、写真下左のような東横フラワー緑道になりました。線路跡なので写真でもわかるように真っ直ぐな遊歩道です。
 では初夏の日差しを浴びながら横浜ウォーキングの本格スタート!
 廃線跡とはいっても整備された遊歩道。車も走ってこない長閑な雰囲気です。遊歩道の路面に部分的に線路を残しているのが廃線跡を思わせます。また、換気ダクトが地上に出ていたりして、現在もこの下に電車が走っているのだと感じさせます。10分ぐらい歩いて、少し右カーブしているところが反町駅、石井くんのお家はこの近くかな。
 さらに進み高島山トンネルを潜るとかなりの下り勾配になり、間もなく横浜駅の街並みが見えてきました。東海道線と並走する横浜駅付近は整備途中のため、細い路地を歩くことになりました。そして横浜駅「きた西口」に差し掛かったころ、石井くんがここは地元だから近道を案内しようと先頭を歩いてくれました。地下道を通って横浜駅東口に移動し、そごうのほうに向かったかと思うと、今度は「崎陽軒本社」のほうに歩いて、ようやく地上に出ました。近道だったかどうかはさておき、1ブロック先に根岸線の高架が見えました。高架に沿って少し歩くとかつての高島町駅です。高架の下の一部は歩道になっており、歩くとかなり狭く感じました。ここからさらに桜木町駅まで廃線区間を歩きます。横浜駅の歴史を紐解くと、現在の桜木町駅が最初の横浜駅(1872年)で、1915年に旧高島町駅付近に移り、1928年に現在の横浜駅の地に移ったということでした。昔の東海道線は大きく曲がっていたようです。一方、旧高島町駅から桜木町駅までの区間はほぼ真っ直ぐでした。余談になりますが、途中の桜木町6丁目に「高島線三菱ドック踏切」という鉄道撮影の名所があり、踏切の向こう側ではカメラがセットされており、列車を待ち構えているようでした。
 東白楽駅から約一時間で桜木町駅、いや、初代横浜駅に到着しました。今回は訪ねていませんが、駅の南側にある自転車置き場裏側から少し離れたところに「鉄道発祥の地」という記念碑があります。
 次は野毛山公園内にある野毛山動物園(1951年開園)を目指します。
 まず横浜の大衆芸能の華を受け継いでいる「横浜にぎわい座」(館長:桂歌丸さん)の前を通り、野毛坂を登ると、まもなく動物たちのイラスト、そう野毛山動物園が見えてきました。ここで高沢くんがお仕事をたくさん残しているということで早退となってしまいました。
 動物園入口の撮影スポットはたぶん幼稚園児のためにあるでしょうが、恥じらいもなく大の大人が整列し集合写真を撮ってもらいました(写真下右)。動物園の見学はお昼までの時間つぶしですので自由行動としました。昼寝中の狸やトラ、ライオンを観察しました。
 次はお待ちかねの昼食です。日ノ出町にある「坂の上のそば屋 司」に行きました。住宅街のこまごました道を歩くことになりましたが、すかさず海老澤くんがスマホの地図機能を使って先導してくれました。海老澤くんの案内に従って、とても急な階段を下り、京急日ノ出町駅方向に向かうと、下り坂の中腹に目指すお店はありました。もう午後1時過ぎなのでお昼のピークは過ぎたと思いきや、まだまだお客さんは待っており、30分位待ってようやく席に着くことができました。ここのオーナーご夫妻は話好きで、ご主人はそば粉などの話をしてくれました。「お薦めは?」という問いに、「そば屋だけど、そうめんもおいしいよ」ということでしたが、私は旬の桜エビの「さくらそば」をいただきました。次回はお薦めの「なす味噌そうめん」を試してみましょう。
 午後2時過ぎまでゆっくりと休んで、ウォーキング再開です。石井くんもお仕事があるということなので日ノ出町駅で別れました。大岡川のところに「瞼の母」や「一本刀土俵入」の作者として著名な長谷川伸(1884~1963年)の碑がありました。大岡川を渡ると長者町に入ります。横浜市営地下鉄の伊勢佐木長者町駅前を通って中村川に差し掛かるまで、真っ直ぐな道でした。後で調べてみると、現在の根岸線と大岡川、中村川に囲まれた釣鐘状の土地は入海だったところで、江戸時代に材木商・吉田勘兵衛によって埋め立てられたことから「吉田新田」と呼ばれたということです。そのためきちんと区割りされたとのことです。
 中村川を過ぎると「山手」に入り、だんだん登り坂がきつくなってきました。そして日ノ出町駅から1時間30分でようやく根岸森林公園に到着しました。根岸森林公園は日本初の近代競馬場だった根岸競馬場(1866年建設、1943年に事実上閉場)の跡地に作られた広大な公園で、「一等観覧席」が遺構として残されています。さらに「馬の博物館」があり、天皇賞馬・マイネルキッツも飼育されています。かなり暑い日だったので涼しい「馬の博物館」でしばし根岸競馬所の歴史や日本の馬の歴史を勉強しました。
 当初の計画では根岸森林公園から三渓園に足を延ばそうと思っていましたが、すでに午後3時を過ぎていたので見送りとしました。すると島田くんから行きたいところがあるということでみんなで付いていきました。すると島田くんが向かった先はユーミンの歌で有名な「ドルフィン」でした。今回の自主トレは根岸まで歩くので、「ドルフィン」の場所を調べておいたということでした。さらに川島さんはこのお店に精通していて、恋人時代に旦那様と一緒に来たことがあるということです。ソーダ水は注文しなかったのでしょうね。さて、島田くんのエピソードは???
 青春の思い出の「ドルフィン」から、狭い九十九折りの階段をゆっくり降りていくと直ぐに根岸駅に到着。駅前の居酒屋「千年の宴」で打ち上げを行いました。

 

      東横フラワー緑道                 野毛山動物園  

【撮影・報告:小久保(35組)】

● 野田線沿線ウォーク編(平成27年6月20日開催)

コース:大宮駅~氷川神社~大宮第二公園(アジサイ園)~大和田駅=春日部駅~市内散策~
    春日部駅=清水公園駅~清水公園~清水公園駅=流山おおたかの森駅(打ち上げ)
    (合計約12キロ)
参加者:石井くん(31組)、堂(旧姓飛田)さん、島田くん(以上33組)、
    川島(旧姓唯根)さん(34組)、小久保(35組)、飛田くん(37組)、飯村くん(39組)
    打ち上げから参加: 雨澤さん(31組)、汀くん(34組)、
    堀米(旧姓坂本)さん(38組)     合計10名
概要: 6月はアジサイの季節。梅雨の蒸し暑い季節なので、青色の花が涼しさを感じさせてくれるアジサイを求めて歩こうと計画しました。ネットで探し、普段あまり乗る機会のない東武野田線沿線にアジサイが綺麗に咲く公園があることを知りました。野田線はあまり知られていませんが、2014年4月に「アーバンパークライン」というニックネームが付けられるほど公園の多い路線です。今回はその中の「大宮第二公園」と「清水公園」のアジサイ園を巡ることにしました。
 今回は水戸から堂さんが参加してくれました。JR大宮駅に午前10時に全員が揃った…かと思いきや、野田線利用には一番便利な位置に住む川島さんが見当たりません。待ち合わせ場所の「まめの木」は地元飛田くんのお薦めの場所で、JR大宮駅の中央自由通路にあり、JRのどの改札からでも必ず中央自由通路に出る構造なので分かりやすいランドマークとして知られているということでした。私が電話をかけてみようと携帯を取り出したところで川島さんが無事到着し、大宮駅からの参加者7名がそろいました。JRからは分かりやすいのですが、どうも東武野田線から「まめの木」への経路は分かりにくかったということでした。
 大宮駅東口を出ると直ぐに狭い路地の両側に居酒屋が並ぶ昔ながらの駅前光景が見られます。また大宮駅の近くのサッカー場は「大宮アルディージャ」(平成27年6月時点、J2の首位を独走)のチーム本拠地で、飲み屋街にも沢山のポスターが貼られていました。その狭い路地を抜けて大通りに出て、氷川神社に向かいました。氷川神社は武蔵一宮として関東一円の信仰を集める2000年以上の歴史を持つ大社です。氷川神社入口の交差点から「氷川参道」と呼ばれるケヤキ並木を歩き、楼門から入り、舞殿を過ぎ、拝殿で当日のウォーキングの安全を祈念しました。
 氷川神社の東門から出て、ひょうたん池と白鳥池の間を抜けて大宮公園に入りました。大宮公園には大宮アルディージャのホームサッカー場(NACK5スタジアム)のほかに、競輪場(大宮競輪場)、野球場(県営大宮球場)が設けられています。私たちは大宮第二公園の方向に出られるよう野球場とサッカー場の間の狭い通路を通りました。その道幅はかなり狭く、もし野球場から場外ホームランが打たれたら、この通路を飛び越して隣のサッカー場に飛び込んでしまうことでしょう。
 狭い通路の次には野球場と競輪場の間から隣接する県道を渡るスロープがあり、それを利用して大宮第二公園に通じる通称「ハナミズキ通り」に出ました。この通路は通称の通り4月にはハナミズキが咲き誇るということです。しばらく歩くと見沼台用水沿いに造られ、万葉集に詠まれた草花を植栽している「万葉親水公園」がありました。見沼台用水を渡り、さらに歩みを進めると「大宮第二公園」に入りました。公園内の分かりやすい案内板に従って歩くと直ぐに「アジサイ園」に到着しました。青、白、紫色のアジサイが見事に咲いていました。背景のアジサイが写真によく写るように、みんなでしゃがんで記念撮影(写真下左)を撮りました。
 アジサイ園を後にして、大宮市営球場はどちらかなと道を探していると、近くの方が「あっちだよ」と方向を示して親切に教えてくれました。その方向に歩くと市営球場の手前に遊水池が見えてきました。この日は水位が低かったので遊水池の底を歩いてみました。クローバーが緑の絨毯となり、白い可憐な花が咲いていました。大宮第二公園は芝川の流れに沿って広大に広がる見沼田んぼの北部に位置しています。先ほどの遊水池はその芝川の流量調節のために設けられています。
 さらに芝川を上流に歩き、大和田公園プールの脇を通り、野田線大和田駅の方向に歩くと、北のほうに美晴公園のシンボルの風車が見えました。また大和田駅付近には土豪伊達氏ゆかりの陣屋跡豪農島村家の長屋門が残っており、戦国末期から江戸時代にかけての歴史的な地区でもありました。さあ、もう午前11時なので、野田線に乗車して、次の目的地「春日部」に移動して、昼食にしましょう。
 春日部駅を降り、大落古利根川(おおおちふるとねがわ)沿いにある鰻屋さんに急ぎました。しかしこの日は生憎と開店しておらず、付近に他のお店も見当たらず、途方に暮れてしまいました。しかたがなく春日部駅まで戻ると、「武井箪笥店」という看板を掲げたフレンチレストランがありました。本当のお店の名前は「Bien(ビアン)」でした。お店の方に「7人ですけど大丈夫ですか?」と尋ねると、「コースだと時間がかかりますけど…」という返事。とりあえずお店に入ってみると7人がなんとか座ることができる広さでした。メインがカレーならばなんとかできるということでランチをお願いすることにしました。しかし、ご飯が足りないかもということで、ライスとパンからお好みを選択することになりました。Bienのオーナーは独学でフランス料理を学び、家業の箪笥屋から転身したということでした。先ほど案内してくれたのはオーナー夫人でした。オーナーはレストラン開業前に家業の傍らフレンチレストランで働き、さらに勉強のためにフランスのワイン産地を巡る旅をしたということでした。お店の壁にはフランスの街並みの写真が飾られていました。(オーナーシェフのインタビューが掲載されたブログ「ロズリンの部屋」参照:前編後編
 午後は春日部の街中を散策しましょう。春日部は、千住、草加、越谷に続く日光街道の四番目の宿場町で、古くは「粕壁」と表記されていました。春日部駅からかすかべ大通りに出てかつての江戸方面に歩くと田村家前道標があり、「西南いハつき」と彫られていました。「いハつき」は今の地名で岩槻。岩槻は春日部から見て南西の方向にある野田線沿線の人形で有名な街です。 
 さらにかすかべ大通りを歩き、芭蕉が宿泊したと伝わる「東陽寺」を過ぎ、粕壁宿の江戸からの入口にあたる国道4号の分岐点まで行きました。そこで折り返して、春日部駅に戻る道すがら、江戸時代の宿場の模型があるという春日部市郷土資料館を訪ねましたが、残念ながら工事で閉館中でした。再び商店街を歩いていくと、島田くんが「塩あんびん」という名前に惹かれて「江戸助」という和菓子屋さんに入っていきました。「塩あんびん」とは埼玉県北東部の農村に昔から伝わる郷土餅菓子のことで、塩だけで練り上げた小豆あんの大福です。
 なんと島田くんはみんなの分も購入してきてくれました。しかし座って食べられるところが見あたらなかったため、さらに駅の方向に歩いていくと、春日部の観光情報提供や特産品の展示をするスポット「ぷらっとかすかべ」がありました。「ぷらっとかすかべ」の中に入ると、親切なことに冷たいお茶を出してくれました。さらにスタッフの方のお言葉に甘えて、図々しくも先ほど購入した「塩あんびん」を食べさせてもらいました。館内の展示では春日部が誇る「クレヨンしんちゃん」の原画(複製)が目を引きました。また、歌手の太田裕美さんなどの著名人が務める「かすかべ親善大使」を紹介していました。そうそう、NHK平日夜9時の「ニュースウオッチ9」でおなじみの気象予報士・井田寛子さんも春日部出身なのですね。
 島田くん提供の「塩あんびん」のおやつでひと心地ついたので、重い腰を上げて春日部駅に向かいました。再び野田線に乗車し、次の目的地は「清水公園」。清水公園駅にて下車し、約10分で清水公園の「花ファンタジア」に到着しました。ここは一年を通じて花が咲き続けているとのことです。訪れたときはイングリッシュガーデン、ローズガーデンの薔薇の花は最盛期を過ぎていましたが、今が見ごろのアジサイだけでなく、ラベンダー、菖蒲、サルビア、マリーゴールドが咲いていました。温室ではバナナの花が咲いていますという案内があったので係りの方に尋ねると高いところに咲いているということでしたが、残念ながら見つけることはできませんでした。
 再び清水公園駅に戻った時には午後4時を過ぎていたので、野田市内散策は次回のお楽しみとして、堀米さんと雨澤さんが待っている流山おおたかの森駅前の打ち上げ会場「華の舞」に移動することにしました。あとから仕事が終わった汀くんも合流したので、合計10名での賑やかな宴会となりました(写真下右)。

 

      大宮第二公園アジサイ園          流山おおたかの森での打ち上げ  

【撮影・報告:小久保(35組)】

● 清水公園BBQ編(平成27年8月22日開催)

コース:野田市駅~キッコーマン本社~野田の醤油発祥の地~キノエネ醤油~
    キッコーマン「もの知りしょうゆ館」見学=清水公園でBBQ(合計約3キロ)
参加者:雨澤さん、石井くん(以上31組)、川島(旧姓唯根)さん(34組)、 小久保(35組)、
    高沢くん、飛田くん(以上37組)、堀米(旧姓坂本)さん、 江戸くん(以上38組)、
    大島くん、堀之内くん、飯村くん(以上39組)   合計11名
概要: 前回6月開催の東武野田線沿線での自主トレは時間切れのため清水公園で終了となり、メイン企画の野田市散策ができませんでした。その後、清水公園のHPを訪れたところ、清水公園にはBBQサイトがあり、手ぶらでもBBQを行えると広告されていたので、8月開催の自主トレは野田市を散策がてらウォーキングした後に清水公園でBBQを行うという企画にしました。
 今回、野田市散策からの参加は、高沢くん、飛田くん、飯村くん、堀之内くんと私の5名です。今年は8月のお盆を過ぎて急に暑さが和らぎましたが、この日はまだまだ気温が高く、さらに蒸し暑い、ウォーキングには不向きな夏日でした。待ち合わせ場所は野田市駅。集合時刻の午後1時には5人全員が揃っていました。事前申し込みがあった31組・松浦くんは、残念ながらお仕事のため欠席となってしまいました。堀之内くんは毎回BBQのたびに食材保管のために大きなクーラーボックスを持参してくれますが、かなりの重さなので、今回は私が買い出し用に乗ってきた車に一時保管することとし、駐車場に立ち寄ってから野田市散策に出発しました。
 まず、野田市内でも飛び切り近代的な建物であるキッコーマン株式会社野田本社に行きました。全面ガラス張りのモダンな装いの社屋が流山街道沿いに建っていました。キッコーマン株式会社は、大正6年(1917年)に高梨家と茂木家一族が野田醤油株式会社を設立したことに始まり、現在では世界100ヵ国以上で「KIKKOMAN」として広く知られるグローバル企業に成長しています。
 次は流山街道の反対側にある「キノエネ醤油」に行きました。趣のある黒い板の壁が出迎えてくれました(写真下左)。ずっと昔、私が千葉大生だった頃、地元出身の学生に「野田市の印象は?」と尋ねたら、「街全体が『黒』」と答えたことを思い出しました。この「キノエネ醤油」だけではなく、キッコーマン株式会社野田本社裏にも粋な黒板塀が残っています。
 さらに「キノエネ醤油」の近くには「野田の醤油発祥の地」の碑があるということで探してみました。すると流山街道から少し入ったところ、ちょっと見つけにくいところにありました。その碑文によれば、室町時代から醤油醸造を行っていたということでした。帰宅後にその理由をWEBで調べてみると、江戸時代に利根川東遷工事が行われ、利根川につながる江戸川が流れる野田は水運が盛んとなり、常陸地方の大豆、下総台地の小麦、行徳の塩が集まり、醤油醸造の好適地となったためでした(TBSテレビ「がっちりマンデー」より)。
 さて、「いま何時?」と腕時計を見ると工場見学の予約時間(午後2時)が近づいていたので、キッコーマン工場に向けて歩き出しました。すると道路の反対側に、千秋社(せんしゅうしゃ)興風会館(こうふうかいかん)という古風な名称の建物がありました。それぞれの建物には経済産業省が指定した「近代化産業遺産」の表示が貼られていました。野田市の醸造関連遺産は先ほど訪れた「キノエネ醤油」も含めて合計15箇所の遺産で構成されているということです。
 興風会館を過ぎ、さらに街を少し歩き、流山街道の起点の下町交差点を左に曲がりました。そして大きな醤油のタンク群を目標に歩くと、約10分で「もの知りしょうゆ館」のあるキッコーマン食品野田工場に到着しました。「もの知りしょうゆ館」は予約制なので正門で名前を告げると、守衛さんたちがニコニコ笑顔で出迎えてくれました。
 工場見学は約40分で、しょうゆ酵母の作成、もろみの熟成、そして、圧搾までの一連の工程をガラス越しに見ることができます。最後に製品として出荷するためのボトリングとラベリングは隣接工場での作業ということでビデオでの上映でした。ここに歩いてくる途中からもよく見えたタンク群は、もろみを熟成するためのタンクだったようです。
 見学終了後はお土産探し。いろんな醤油製品やグッズが並んでいました。その中でも有名なものに宮内庁御用達の「御用蔵醤油」がありました。お土産購入がすんだ後は、「まめカフェ」という売店で醤油の入ったアイスクリームや豆乳アイスクリームを食べました。どちらも醤油のほんのりした香りがして、少ししょっぱいかなと感じさせながらも口の中にふわーと甘く溶ける食感がなかなかのものでした。
 「もの知りしょうゆ館」で遊んでいると、時刻はもう3時過ぎ、買い出しから合流の川島さんが野田市駅に到着する時刻です。みんなで川島さんを迎えに行きました。改札から出てくる川島さんはお洒落な長めのスカートで決めていましたが、両腕で発泡スチロールの大きな箱を抱えている怪しい風体でした。箱の中身は夏休みに北海道旅行をされた時に購入した北海道限定のビールでした。なんと18本も入っていたので、さぞや重かったと思います。どうもありがとうございました。こんな大変な思いをして内地(北海道弁で本州などを指す言葉)に届けられたビールなので、心して味わいましょう。
 買い出し係は、川島さん、堀之内くん、飯村くんと運転手の私で、飛田くんと高沢くんは野田線で清水公園駅まで移動して清水公園BBQサイトには歩いて行くことになりました。私たち買い出し係は、堀之内くんご指定のスーパー「ベイシア野田桜の里店」に行き、飯村くんがピムスに使う炭酸水・レモン・氷のほか、ワイン、お新香、ノンアルコール飲料を調達しました。
 清水公園の駐車場からBBQサイトまではちょっとした登り坂でした。4人で手分けをして食材を運び、BBQの受付を済ませ、待合スペースでBBQ炉の準備ができるのを待ちました。その間に高沢くんと飛田くんに連絡がとれ、こちらの場所を伝えると、間もなく2人も到着しました。ただし、清水公園駅からの徒歩の時間は堀之内くんが前もってメールで伝えてくれた時間よりもかなり長くかかったとのことで、すごくお疲れのようでした。
 しばらくすると係の方から炉の準備ができたということで、BBQの場所に案内して貰いました。そしてBBQの準備を始めていると、ほどなく江戸くんが到着しました。炭にうまく火が付かず係の方から火種をもう一つもらったりするなど、わいわいとBBQの準備をしていると、私の携帯電話に着信があり、それは石井くんからでした。「いま清水公園駅。どこに行けばいい?」という質問でした。駅からBBQサイトまで歩くと30分近くかかるので、私が車で迎えに行くことにしました。駅ではちょうど雨澤さんも到着し、2人を車でピックアップしてBBQサイトに戻ると、大島くんが汗をかいて座っていました。駅から歩いてのご到着とのこと、タッチの差でしたね。
 BBQ定番の飯村くんお手製のピムスを食前酒に、そろそろ第一陣のお肉が美味しく焼けだしたので食べ始めようとしたところで、堀米さんから電話がありました。流山おおたかの森駅のクリニックでの仕事を終えてからこちらに移動し、歩いて清水公園に入ったということでしたので、比較的分かりやすいBBQサイト受付まで私が迎えに行き、私たちのBBQ炉まで案内して、ようやく11名全員集合が集合しました(写真下右)。
 今回の焼き手は、主に江戸くん、飛田くん、高沢くんが担当してくれました。暑い中、お疲れ様でした。特に江戸くんからは「次回は大洗の美味しい海の幸をいっぱい用意しましょう。」というお言葉がありました。
 次回のBBQ、かなり期待できますよ!
 また堀之内くんからは先ほど購入したばかりの「御用蔵醤油」が提供され、いろんな食材にかけていただきました。半分ぐらいは使ってしまったかもしれません。高価なお醤油、どうもありがとうございました。
 午後5時のBBQ開始から約3時間、サイトで用意されていた食材はかなりの量で食べ応えがありました。これで2,800円ならばお得でしょう。最後に焼きおにぎりを平らげ、満腹になりました。午後8時30分ごろから片付けを行い、車もしくは歩いて清水公園駅に移動し、午後9時過ぎにお開きとなりました。

 

       キノエネ醤油の黒板壁               清水公園BBQサイト  

【撮影・報告:小久保(35組)】

● 等々力渓谷編(平成27年9月27日開催)

コース:等々力駅~等々力渓谷~多摩川堤防~鹿島田(昼食)~多摩川堤防~川崎大師=
    京浜急行大師線=川崎駅 (打ち上げ)  約16キロ
参加者:小久保(35組)、高沢くん、飛田くん(以上37組)、酒井(旧姓武石)さん、
    堀米(旧姓坂本)さん(以上38組)、佐々木くん、堀之内くん、
    飯村くん(以上39組) 合計8名
概要: 今回の自主トレは2年前に雨で中止となった等々力渓谷から多摩川を堤防沿いに下って川崎大師にお参りするルートの再チャレンジです。長~~い自主トレの歴史を調べると、等々力渓谷には平成20年3月に訪れています。そのときは等々力渓谷から南に歩き、南武線武蔵新城駅がゴールでした。
 今回の集合場所の等々力駅は私の住む飯能からはかなり遠いので早起きしないといけないのですが、幸いにも(?)早朝に携帯のメール着信メロディが流れ、その音で起床できました。メールを開いてみると勝田から参加予定の酒井さんからで「大雨が降っていますが、電車で向かいます。」とのこと。「大雨!」では困ったなと直ぐにパソコンを起動し、気象庁の「高解像度降水ナウキャスト」で雨雲の様子を確認すると、どうやら降っているのは茨城県だけで多摩川付近は降らないことが判り、ひと安心しました。それから身支度を整えて駅に向かいました。
 西武池袋線から東横線への直通電車が2013年より設定されているので、東横線自由が丘駅だけの乗換えですみ便利です。飯能駅で乗車すると間もなく、今度は堀米さんから着信がありました。「寝坊したので集合時刻に遅れます。予定のコースに沿って後から追いかけるから、先に出発してください。」とのこと。遅れるって、えっ、そんなに簡単に追いつけるのだろうか?
 乗換駅の自由が丘駅では佐々木くんと偶然一緒になりました。二人で自由が丘駅から3つ目の等々力駅で下車すると、すぐに堀米さんを除く全員が揃ったため、等々力渓谷へ出発しました。等々力渓谷は東京都指定名勝で、谷沢川沿いの1キロが遊歩道として整備され、四季折々の多彩な表情を楽しむことができる散策路です。
 駅傍のスーパー成城石井の脇の道を入ると、駅から5分ほどのところに通称ゴルフ橋があります。橋のたもとにある「等々力渓谷公園入口」と記載された案内板がある急な階段を下りていくと、都心とは思えぬ鬱蒼とした木々が深い緑をなす等々力渓谷に出ました。谷沢川に沿って遊歩道を歩いて行き、玉沢橋を過ぎると、弘法大師生誕1,200年記念(昭和50年)に奉修(ぶしゅう:修め奉ること)された稚児大師像が納められた御影堂がありました。稚児大師とは弘法大師の幼児期の呼び名です。またその対岸には等々力渓谷横穴古墳がありました。ここは3基の横穴古墳が発掘調査された場所で、古墳時代から奈良時代にかけての地元の有力者の墓だそうです。
 次に訪れたのは等々力不動尊。湧水が流れ落ちる「不動の瀧」の傍に「雪月花」というお休み処があり、その前の階段を登っていくと等々力不動尊に到着しました。ここでは残念ながら堀米さん抜きの記念写真(写真左下)になってしまいました。ちなみに等々力の地名はこの瀧のように湧水が水面に落ちる音が轟くところから謂われているそうです。
 さらに谷沢川を下っていくと丸子川(旧六郷用水)との合流点がありました。試しにGoogle Mapでこの場所を見ると、谷沢川と旧六郷用水が立体交差しているようにもとれますが、実際の旧六郷用水の水は下に落ちて谷沢川と合流していて、一部を汲み上げて旧六郷用水へ流す構造であることが分かります。ここで谷沢川から離れ、住宅街を通って多摩堤通りに出て、道路を横断して多摩川の堤防の内側に入り、川崎方向に歩きました。
 多摩川の河川敷には東京都市大総合グラウンドや多摩川緑地広場のサッカー場、野球場、テニスコートが並んでいました。ここはスポーツのメッカです。子供たちや大人の歓声がそこここから湧き上がっていました。
 多摩川緑地広場の駐車場を過ぎると東京側の河川敷の幅が狭くなり、多摩川の水位が少し高くなったように感じました。さらに散策路も狭くなりました。ここは多摩川調布取水場です。水門を見ると過去の洪水時最高水位がマークされていました。さて、私たちを追いかけているはずの堀米さんは何処にいるのでしょう?ゆっくり歩けば下流の「ガス橋」で合流できると考え、ここで小休止としました。洪水時最高水位のマークを見ながら、「昔、多摩川が氾濫したのは何年ごろ?」などが話題となりました。
 短い休憩を終え、東横線鉄橋と中原街道丸子橋を潜って再び多摩川の河川敷を歩きました。すると堀米さんから電話がありました。「多摩川に出て河川敷を歩き始めたけど、この道でいいの?」という質問。「東横線の鉄橋は見えますか?」と尋ねると「見える!」と元気な返事なので2キロは離れていないようです。途中で15分ぐらい道草をすれば追い付いてもらえそうです。
 丸子橋下流の河川敷にはゴルフ練習場があり、それを眺めながら飛田くんからゴルフ談義を聞かせて貰えました。さらに歩くと、高校生がグローブを持って河川敷に並んで立っていました。高校の野球練習場のようです。どうやら近くにある東京高等学校(1872年創設)の野球部が練習試合を行っているところでした。並んで立っていたのは、ここが河川敷内のグラウンドでネットが低いため、飛び越えたファールボールが通行する人に当たらないように注意を促し、危ない時にはそのボールを捕球するためのようです。
 「試合展開は?」とスコアボードを見ると、同点で9回裏、複数のランナーが出てサヨナラになるかもしれない好場面でした。高校野球大好きの酒井さんを始め、どうやら皆さんこの試合に見入ってしまったようなので、自然と休憩となってしまいました。ほどなく堀米さんから再び電話があり「東京高等学校が見えるところまできた。」ということでした。「それならば、少し先の野球場で試合を見ているからすぐ合流できます。」とやり取りをしている間に併殺打(?)でゲームセットになったようです。残念ながら私は結末の瞬間を見られませんでした。そして試合終了後すぐに、堀米さん、ご到着となりました。
 ここからは、東京ガスのパイプラインが橋げたに2本通っているガス橋を渡って鹿島田駅に向かいます。このガス橋の手前には昨年春に訪れたキヤノン本社があり、桜並木になっており、雨の中での桜見になったことを思い出しました。
 ガス橋を渡ると少し下流に多摩川の渡船場のひとつだった「平間の渡し」跡がありました。この道は古鎌倉街道で、江戸期以降は東海道の間道として生活用資材の運搬に利用されてきたということです。本日の昼食は鹿島田駅近くの和食割烹で、魚料理やお蕎麦が美味い「船勢」というお店です。海鮮丼他を銘々が注文し、たっぷり一時間、昼食をいただきました。
 ところで「鹿島田」は鎌倉時代に当地へ開墾に入った人々がこの地の鎮守様として「鹿島大神」を勧請し、田を寄進したことからついた地名となったということです。また近くに天満天神社があり、この日は幸運にも祭礼でした。交差点で信号待ちをしていると、折よく一騎の神輿が道路を渡ってきました。しばらくするともう一騎がやってきて、交差点の中で神輿を勢いよく揺らしたり、廻したり、傾けたりとお神輿の担ぎ技を披露してくれました。
 鹿島田の街から多摩川の堤防に戻り、再び川崎方面に歩きました。多摩川が大きく右に曲がるところに「川崎競馬練習馬場」、その隣には「ラジオ日本」の送信アンテナがありました。堤防を歩いていると自転車に乗った若い女性の二人連れに「川崎駅はどちらですか?」と堀米さんと酒井さんが尋ねられたりしました。さらにしばらく歩くと堤防の道は普通の道に合流してしまいました。だんだん川崎駅が近づいているようです。ふと多摩川のほうを見ると、どうやらこの辺りはマンションが河川敷内に建っているようです。そこでマンションの建物の間をすり抜け、再び堤防上の道に出ました。この辺りがかつて「六郷」と呼ばれたところです。
 まもなく鉄橋が見えてきて、これが東海道線です。次に京急線の鉄橋を潜って、また少し歩き、京急大師線の踏切を渡りました。すると川崎競馬場が見えてきました。場外馬券を買い求める皆さんで賑わっていました。さらに大師道(国道409号線)を歩き、鈴木町駅入口で大師道から分かれて、近道をして川崎大師(金剛山金乗院平間寺、真言宗智山派、1128年創建)に向かいました。立派な信徒会館の近くにある至真門から川崎大師境内に入り、大香炉の煙をたっぷり浴びてからお参りしました(写真下右)。
 帰りに仲見世通りを歩いていると、川崎大師の名物「久寿餅(くずもち)」が一般的な「葛餅」の表記と異なることが話題になりました。これは天保の頃(1830~40年)、「三十五世隆盛上人が、餅を作った久兵衛の『久』の一字と、無病長寿を祈念した『寿』の一字とを合わせて、久寿餅と名付けられた」ためということです。
 そうこう話していると川崎大師駅に到着、京急で川崎駅に移動しました。酒井さんはご主人との待ち合わせがあるということで、川崎駅でお別れし、私たち7名は近くの居酒屋で打ち上げを行いました。

 

        等々力不動尊                     川崎大師  

【撮影:佐々木くん(39組)・報告:小久保(35組)】

● 花貫渓谷編(平成27年11月15日開催)

コース:高萩駅=(バス)=花貫駐車場~汐見滝吊り橋~花貫駐車場~花貫ダム~
    十殿(じゅうどの)神社~高萩市森林公園(お手まき記念の森)~
    穂積家住宅=(タクシー)=高萩駅 約16キロ
参加者:堂(旧姓飛田)さん、佐藤(旧姓柳沢)さん(お嬢様同伴)、飯村稔くん(以上33組)、
    小久保(35組)、石原(旧姓小野)さん、飛田くん、高沢くん(以上37組)、
    堀米(旧姓坂本)さん(38組)、堀之内くん(39組)  合計11名
概要: 川島さん(34組)は、一高時代には高萩駅から通学していたということです。しかし高萩に住んでいたもののほとんど学校との往復だけだったため、当時は近くても行けなかった花貫渓谷に是非行きたいという達ての願いで今回の企画となりました。しかし、残念ながらその川島さんは風邪のため不参加となってしまいました。
 2015年の秋はエルニーニョ現象のため比較的に暖かい日が続きましたが、安定して晴天は続かない「?心と秋の空」状態で、まさに自主トレ前日も雨模様で、前線を伴った低気圧が通過中でした。しかし気象庁のWEBを確認すると、日曜日の朝にはいわき沖の太平洋に抜けるという天気予想図だったので、「まあ、何とかなるだろう」と開催を決めました。
 朝7時30分上野駅発ときわ51号に乗車しました。次の停車駅・柏駅では、石原さん、堀之内くんが乗車しましたが、堀米さんは見当たりません。既に電車のドアが閉まった気配なので「堀米さんは?」と尋ねると「まだ会っていない」と心配そうな返事。もう列車が動き始めた時、堀米さんが隣の車両から姿を現し、ギリギリでしたが全員が乗車できました。
 そして水戸駅からは堂さん、佐藤さん親子、飛田くんの4名が乗車しました。上野駅からの車窓は雨が降ったりやんだりで、ウォーキングできない場合の代替案を高沢くんと話しながらの旅となりました。もう一人の参加者の飯村くんは普通列車でのんびりと高萩駅に向かうということで、私たちが乗車した特急は利用せず、一本早い電車に乗り、私たちが目的地の高萩駅に到着した時には既に到着していました。
 高萩駅は常磐炭田から運ばれた石炭の積み替え作業の駅として大いに賑わった歴史があり、何本もの留置線がある主要駅です。駅改札(なんと「Suica」が使えました)を出ると、バス会社(日立電鉄交通サービス)の方が「花貫渓谷行きのバスは左手のロータリーから発車します。」と大きな声で案内していました。まだ発車時刻には10分以上あり、また折悪く雨が強くなってきたので、まずは駅の出口のアーケードのところで雨宿りしました。
 そして高萩駅9時45分発花貫渓谷行きのバスに乗車すると、中国からの観光客で後方の席がかなり埋まっていました。日本の紅葉は人気スポットなのでしょう。なんと発車時には小雨にも拘らず立ち席が出るほどの人数となりました。バスは高萩駅を出発するとまもなく山道を走り、約20分で花貫渓谷駐車場に到着しました。事前に高萩市観光協会のHPで調べていたのですが、そこには2014年作成の案内図しか掲示されておらず、私は次の「大能駐車場」まで行けるものと思っていました。しかし2015年のシャトルバス運行は「花貫駐車場」までということで、事前の想定とは異なり、花貫渓谷の急な坂道を登ってから別の道を降りてくるというループ状のコースとなってしまいました。
 幸いにもバスに揺られている間に低気圧は通過した模様で、雨も止み、問題なく渓流沿いの散策ができるほどに回復していました。さあ、紅葉の花貫渓谷散策に出発!
 まずは花貫駐車場から少し下ったところにある「乙女滝」と「不動滝」を見学しました。ここにはカッパ伝説があるということで道標には記載されていましたが、具体的な話はよく分かりませんでした。次は花貫渓谷の名所の一つである「汐見滝吊り橋」を目指しました。吊り橋までの道は花貫街道の旧道で、きちんと舗装されてはいましたが傾斜はかなりきつい登り道でした。ただし紅葉の季節は車両規制があり、安心してウォーキングを楽しむことができました。
 10分ぐらい歩くと前方に人混みが見えてきました。どうやら目指す「汐見滝吊り橋」の手前のようで、吊り橋をバックに記念写真を撮る順番待ちの列のようです。私たちはその人混みを上手に抜け、吊り橋のたもとにたどり着き、一列になって渡りだしました。反対方向からの歩行者もいるので、橋上の人々が作る複雑な動きが重なって、吊り橋は上下左右に揺れること、揺れること、それは歩きにくい状態でした。佐藤さんのお嬢様は「もうこんな橋は渡りたくない」と音を上げていました。汐見滝吊り橋を渡ったところの展望台で記念写真(写真下左)を撮りました。
 汐見滝吊り橋からはハイキングコース・・・、いや単なる山道です。きつい坂を登り切ると「小滝沢キャンプ場」の駐車場に到着し、さらに先ほどの旧道と合流しました。花貫川を渡り、今度は「紅葉並木」と呼ばれる旧道伝いの坂道を下りました。右手に花貫渓谷を望みながら、紅葉のトンネルを落ち葉を踏みながらゆっくりと歩きました。そして程なく先ほどの「汐見滝吊り橋」に到着しました。今度は吊り橋の下に降りて「汐見滝」に向かいました。汐見滝はさほど大きい滝ではありませんが、川幅が狭く、勢いよく水が流れていました。そうそう石原さんはたくさんの写真を撮影していたようで、いつも最後尾になっていました。
 汐見滝を後にして、再び花貫駐車場に戻り、もう雨も止んだので花貫街道に沿って高萩市内までの10キロ強を歩くことにしました。今日の昼食会場は江戸時代の豪農「穂積家住宅」で季節営業されている「萩の茶屋」です。それでは、出発前にトイレ休憩。全員が戻ってくる間に佐藤さんのお嬢様が作ったお菓子をいただきました。美味しいお菓子、どうもありがとうございました。
 花貫駐車場を出発するとまもなくお蕎麦屋さんがあり、そこで新道と合流していました。反対車線側にだけ歩道が設置されていたため新道を横断し、さらに歩道を歩いていくと「名馬里ヶ淵(なめりがふち)」というところに出ました。この辺りからは渓谷沿いに散策路が整備されており、先ほどの人混みの花貫渓谷とは違った、趣のある紅葉を鑑賞することができました。散策路を下ると川幅がだんだん広くなってきました。花貫ダム湖に近づいてきたようです。花貫ダムは洪水調整用として昭和48年に完成し、ダム堤体越しに太平洋が展望できることから「海の見えるダム」として親しまれているということです。この日はあいにくの曇り空で、海と雲との境がはっきりしませんでした。
 花貫ダムを過ぎると歩道がなくなってしまったため、道路の右側を一列になって自動車に注意しながら歩きました。2キロぐらい歩くと、また小雨が降り出しました。傘を差しながら歩くことになりましたが、まもなく常磐自動車道の橋脚が見えてきました。そして橋脚の下を歩くと、10分ぐらいで地元の鎮守である十殿(じゅうどの)神社がありました。もう花貫駐車場から1時間ぐらい経過していたので、ここで小休止をとりました。
 十殿神社からは花貫街道と別れ、高萩の古い街並みを散策します。道沿いに古そうな蔵が建っていました。そしてここからは北方向に歩きます。高萩市民球場の前を通過すると間もなく、昭和51年(私たちが高校3年生のとき)に行われた第27回全国植樹祭「お手まき行事」の会場となった「高萩市森林公園」がありました。小休止を兼ねて公園内に入って行くと、昭和天皇と香淳皇后が種をお手まきされたスギとイチョウが約50年の歳月で大きく育っていました。
 高萩市森林公園を後にして道なりに歩くと、前方が大きく開け、遠くに川と川沿いの集落が見えました。どうやら目的地の上手綱(かみてづな)のようです。江戸時代に水戸藩の初代附家老となった中山信吉の子、信正とその子孫が松岡(現高萩)の領主となりました。ちなみに中山信吉が私の住む飯能出身ということで、高萩市と飯能市は平成15年より友好都市提携を結んでいます。県北医療センター高萩協同病院の新しい大きな建物を左手に見ながら、先ほどの一直線の道を歩くと、「堀ノ内橋」がありました。もちろん堀之内くんとは関係がありません。ここから関根前川に沿って歩くと、「穂積家住宅」に到着しました。
 「穂積家住宅」は県指定文化財で、江戸時代中期ごろ(18世紀中期)に建てられた豪農の住宅です。この建物を利用して、紅葉の季節には「萩の茶屋」というレストランが開設されます。特に地元の「五浦ハム」が提供する肉料理が絶品とのこと。2015年は10月10日(土)~11月29日(日)の営業でした。到着時刻が午後2時に近かったので、お屋敷の見学は後回しで、早速ランチタイム!しかしこのレストラン、大盛況で、しばらく外で待つことになりました。そこで席が空くまでの間に記念撮影(写真下右)。その後、上がり框で靴を脱いで、何とか2つのテーブルに分かれて座ることができました。藁葺き屋根の建物の中には高い柱で作られた大きな空間があり、大広間とそれに続く複数の部屋から構成されていました。文化財の中での営業は大変そうで、ご飯は別の場所で炊いて飯櫃に移してから建物内に持ってきていました。食後は、邸内の長屋門、前蔵、衣装蔵、庭園を散策しました。江戸時代の簡素ながらも豪華なつくりに感心しました。
 私たちが散策している間、堀之内くんは気を利かせて駐車場に行って帰りのタクシーの予約をしてくれました。そして午後3時30分の予約時間にタクシー乗り場に移動し、3台に分乗して高萩駅に到着しました。生憎、高萩駅からの特急はなかったので、普通電車で水戸駅に移動し、水戸駅から各自の家路につきました。

 

  汐見滝吊り橋 【撮影・飯村くん】    穂積家住宅「萩の茶屋」【撮影・高沢くん】  

【報告:小久保(35組)】

● 浜離宮編(平成27年12月20日開催)

コース: 浜松町駅~福沢・近藤両翁学塾跡の碑~浜離宮~築地場外市場~築地本願寺~
     慶應義塾発祥の地~築地居留地跡~茨城マルシェ(昼食)~皇居前広場~
     皇居東御苑~北の丸公園~昭和館~不忍池~上野恩賜公園~寛永寺~
     鳥番長(打ち上げ) 約20キロ
参加者: 小久保(35組)、飛田くん、(37組)、酒井(旧姓武石)さん、
     堀米(旧姓坂本)さん (以上38組)、飯村くん、佐々木くん、堀之内くん(以上39組)
     合計7名
概要: 今回は幕末の江戸の史蹟を歩く企画です。最後の将軍・徳川慶喜公(水戸藩9代藩主・斉昭の七男)は、戊辰戦争開戦(1868(慶応4)年1月3日)後の形勢不利を見て大坂城を離脱し(同年1月6日)、開陽丸で江戸に戻り、浜離宮の船着き場(将軍お上り場)から上陸し、江戸城に入りました。その後、新政府に対する恭順の意を表し、上野寛永寺大慈院で謹慎(同年2月12日)し、勝海舟らの働きで江戸城無血開城(同年4月11日)となったのを受けて水戸に退去しました。今回はこの舞台に沿って、浜松町の浜離宮から皇居東御苑(江戸城本丸跡)を経て、上野寛永寺までウォーキングします。山手線の駅にして浜松町駅から鶯谷駅までの8駅を歩く長丁場です。、
 歩いてみるといろいろな発祥の地がありました。
 島田くんからも事前に参加申し込みがありましたが、生憎と出張となってしまい欠席でした。もちろん関係ないと思いますが、当日の天気は前週の曇天とは打って変わっての快晴、気温12℃と、12月下旬のこの時期にしては暖かいウォーキング日和になりました。
 集合時刻に浜松町改札出口で待っていると、佐々木くんから「浜松町駅には『北口』もある」という電話がありました。なぜ「北口」に?と思いつつ、メインの「南口」まで移動してもらいました。
 予定の午前10時過ぎに全員がそろい、出発進行!
 まずは、浜松町駅近くにある「福沢・近藤両翁学塾跡の碑」を探します。福沢諭吉翁近藤真琴翁はいずれも明治の六大教育家の一人です。
 浜松町駅を山手線沿いに北に歩き、世界貿易センタービル脇の通路を通り、先ほど佐々木くんが待っていたという「北口」を右下に見おろしながら歩きました。北に歩くのであれば、集合を「北口」としたほうが近かったかもしれません。
 目指す「福沢・近藤両翁学塾跡の碑」は浜松町1丁目の港区立エコプラザ(旧・神明小学校跡地)前にありました。福沢諭吉翁が1858(安政5)年に築地に開いた蘭学の塾を、芝新銭座の江川太郎左衛門の長屋(この碑のある所から北に通りを一つ離れたところ)に移したのは1868(慶応4)年のことで、年号にちなんで慶應義塾と名づけたそうです。一方、近藤真琴翁は1863(文久3)年に攻玉社(現在は品川区五反田にある中高一貫校)の前身となる蘭学塾を開塾したということです。
 次は「浜離宮恩賜庭園」に向かいました。浜松町駅の北側にある高さ2.2メートルの狭いガードに入り、山手線、京浜東北線、東海道線、東海道新幹線の線路を潜って反対側に出ました。アクティ汐留(56階建てマンション)と東京ツインパークス(47階建てマンション)の間に、まわりの喧騒を忘れさせるような空間「イタリア公園」がありました。「日本におけるイタリア2001年」を記念し同国から寄贈されたということです。首都高速都心環状線とJRに挟まれたところにあり、存在はあまり知られていないかもしれません。しかし、本格的なイタリア式庭園の外観で、イタリア製の彫刻や噴水を配した趣のある庭園です。
 イタリア公園を首都高速側に抜けると、目指す「浜離宮」が見えました。佐々木くんは浜離宮の入り口が近くにあるはずという意見でしたが、そうではないようです。さらに北方向に歩道を歩いていくと「浜離宮庭園前」という交差点があり、その横断歩道を渡ると「中の御門」という正しい入り口(2ヵ所ある出入口の片方)に着きました。
 「浜離宮恩賜庭園」は、江戸時代・寛永年間(1624~1644年)までは将軍家の鷹狩場で、芦原でした。1654(承応3)年に時の甲府藩主(4代将軍家綱の弟)がこの地を拝領し海を埋め立てて別邸を建てましたが、6代将軍家宣の治世に徳川将軍家の別邸とされて大改修され、「浜御殿」と呼ばれ、江戸城の出城としての役割も果たしました。明治維新後は皇室の離宮となり、「浜離宮」の名称に改められました。1945(昭和20)年にGHQの要求で東京都に下賜され、1946(昭和21)年から「浜離宮恩賜庭園」として公開されています。広さ約25ヘクタールの回遊型の庭園です。
 まず庭園の南側の「新銭座鴨場」に行きました。鷹が鴨を狩るまでの手順が絵を用いて示されていました。要は鴨をおびき寄せるまでが勝負で、じっくり待つことが秘訣のようです。次に鴨場から「潮入の池」(都内唯一の海水の池)に出ると、池のほとりに見晴らしのよさそうな「富士見山」がありました。頂上は10メートルぐらいの高さですが、石段を上っていくと庭園が一望でき、さらに庭園の背景には汐留の高層ビル群が見えました。「和」と「洋」のコントラストが際立って美しい光景でした。また潮入の池の中に「中島の御茶屋」が見えたので、まだそんなに歩いていませんが「お茶する」ことにしました。池の岸と中島を結ぶ橋は一部工事中のところもありましたが、御茶屋は通常どおり営業していました。潮入の池が一望できる見晴らしの良い席で、緋毛氈(ひもうせん)が敷かれた長椅子で抹茶をいただきました。
 休憩後は東京湾に面した「横堀」という池を通って「将軍お上がり場」に行きました。ここには将軍が船で浜御殿に来た際に乗り降りするための階段が残っています。東京湾のほうに眼をやると水上バスがちょうど到着していました。この発着場からは日の出~浅草を結ぶ隅田川ラインが運行されています。ここで、歴史通の飛田くんが幕末と維新の状況や謂れを聞かせてくれました。水上バスの発着場を過ぎた場所は、築地川に面した庭園の北辺にあたります。順路に沿って歩いていくと山茶花が見事に咲いていました。そうそう、当日朝の日テレの番組で浜離宮からのお天気中継があり、山茶花が見ごろだとレポートしていたのを思い出しました。さらに歩くと植えられたばかりの菜の花畑。きっと春には黄色い絨毯になることでしょう。その後、庭園の北に位置する大手門口(もう1つの出入口)近くにある「三百年の松」で記念写真(写真下左)を撮りました。この松は三百年前の6代将軍家宣の時に行われた大規模な庭園改修の際に植えられたということです。
 浜離宮恩賜庭園を出て、築地川に架かる大手門橋を渡り、朝日新聞社前の新大橋通りを歩くと、東京都中央卸売市場です。この日は日曜日なので市場は休場でしたが、場外市場は師走の書き入れ時です。人混みの中、昭和24年創業の玉子(「卵」にあらず)焼き専門店「築地山町」で、店頭販売されている焼きたての100円玉子焼きをいただきました。そして場外市場の狭い路地を抜けていくと、勝鬨橋に通じる晴海通りに出ました。 
 次はインド風寺院の「築地本願寺」に向かいます。築地本願寺は1617(元和3)年に浄土真宗本願寺派(本山は京都の西本願寺)の「別院」として浅草近くに建立されましたが、1657(明暦3)年の「明暦の大火」で焼失したため、この地に1679(延宝7)年に再建されたということです。このとき門徒衆が中心になり海を埋め立てて土地を築いたことが「築地」という地名の由来ということです。
 築地本願寺から晴海通りを海の方に歩き、「軍艦操練所」が置かれていた築地6丁目交差点を左折して聖路加(せいるか)国際病院(St. Luke’s International Hospital)方向に向かいました。突き当りの「病院前」という交差点に三角形の安全地帯があり、「慶応義塾発祥の地」と「蘭学の泉はここに」という2つの石碑が建っていました。前者は先ほども触れた福沢諭吉翁が築地に開いた蘭学の塾のことで、後者は築地近くの鉄砲洲にあった中津藩邸で前野良沢・杉田玄白・中川淳庵などがオランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」の翻訳を行ったことを記念するものだそうです(1774年に「解体新書」として刊行)。
 ここで向きを変えて、聖路加国際病院に沿って東へ歩き、聖路加ガーデンのところを左折しました。このあたり一帯は1869(明治2)年に開設された築地居留地(1899年の治外法権撤廃で廃止)の跡で、外国公使館や領事館が置かれ、来日した宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、青山学院などキリスト教系の学校の多くがこの地を発祥の地としているそうです。佃大橋交差点を左折して都道473号線(新富晴海線)を有楽町方面に歩きました。道路名称よりも「東京メトロ有楽町線」の地上部分と表現したほうが分かりやすいでしょう。新富町、銀座一丁目と駅の上を歩いていくと、右側に見える東京高速道路の下に「茨城マルシェ」が入居していました。「茨城マルシェ」は県のアンテナショップで、和食レストラン「ばんどう太郎」(本社:古河市)が2014(平成26)年から運営しています。
 道路越しに「茨城マルシェ」のほうを見ると、お店の前は大行列。ちょうどお昼時なので困ったなと思いきや、その行列はお隣のパン屋さん「CENTRE THE BAKERY」のお客さんだったので安心しました。しかしお隣ほどではありませんが「茨城マルシェ」のレストランも混んでいたので、7名のメンバーがいくつかのグループに分かれての昼食となってしまいました。私と飛田くんは「ローズポーク納豆とんかつ」をいただきました。健康的ですが納豆の味が強かったようです。
 午後は皇居から寛永寺を目指します。馬場先門から皇居前広場に入り、外国からの観光客で混雑した二重橋濠前で、佐々木くんが外国の方に依頼してくれ、写真を撮ってもらいました。酒井さんの解説によると、この位置から見えるメガネ橋構造の石橋が「正門石橋」で、その奥にも橋があり、それが「正門鉄橋」とのこと。二重橋とは現在の「正門鉄橋」の位置に架かっていた「西の丸下乗橋」のことで、江戸時代の橋が二重構造だったことからつけられたニックネームだそうです。
 次に皇居前広場を二重橋濠に沿って坂下門まで歩きました。坂下門のそばの「蛤濠」のところから飛田くんが「富士見櫓」が見えないかと濠の向こう側を盛んに覗き込んでいました。ここは宮内庁の出入口です。近くの警備の人たちは訝しんだりしていなかったでしょうか。
 「蛤濠」に沿って「巽(たつみ)櫓(桜田二重櫓)」を左に見ながら内堀通りに出ました。「和田倉濠」を渡り、「大手門」を潜り、公開されている皇居東御苑(江戸城本丸跡)に入りました。皇居東御苑には2013(平成25)年2月開催の自主トレで入場したことがあります。江戸城の本丸御殿は1606(慶長11)年の完成後、地震や火災で幾度も倒壊・焼失し、そのたびに再建されましたが、1863(文久3)年の焼失後はそのまま再建されず、機能は西の丸御殿に移されたということでした。本丸御殿跡の広い芝生で「午砲台(ごほうだい)跡」と刻まれた石を見つけました。佐々木くんがスマホでその場で調べてくれたところ、廃墟となった本丸御殿跡は気象台発祥の地でもあり、明治初期から昭和30年代まで気象庁の官舎が置かれた地でもあります。1871(明治4)年に正確な時刻を知らせる目的で午砲台が設置され、時刻を知らせる音から「ドン」の愛称で親しまれていたそうです。
 そして天守台跡に登った後、その北側にある「北桔橋門(きたはねばしもん)」から北の丸公園に移動しました。この夕方には「乃木坂46」のコンサートが行われるようで、日本武道館ではたくさんの若者たちが列を作っていました。「田安門」から靖国通りに出て、近くの「昭和館」で休憩がてら「戦後70年写真展」に立ち寄りました。
 ここからは佐々木くんが道案内役です。新しいオフィスに引っ越したということでしたので、その「ワテラスタワー」(41階建て)に廻って、昌平橋で中央線と総武線を潜ってから北にまっすぐ歩き、不忍池に到着しました。もう午後4時すぎで、辺りはだんだん暗くなってきたので、歩速を上げました。不忍池の外周を通って上野恩賜公園への坂を登りました。さらに公園内の大噴水の脇を通り、東京国立博物館の脇に出ました。すると懐かしい京成線「博物館動物園駅」跡がありました。その交差点を北方向に歩くと寛永寺(徳川将軍家の祈祷所・菩提寺)があります。
 寛永寺への道沿いには文化財の保存と活用を図る「国立文化財機構」の施設がありました。そして上野中学校の脇を通って、ようやく慶喜公謹慎の地でもある「寛永寺」に午後4時30分過ぎに到着しました。既に暗くなっていましたが、お参りをして根本中道で記念写真(写真下右)を撮りました。明治維新で寛永寺の寺域は大幅に縮小されてしまいましたが、現在でも慶喜公が2ヵ月ほど蟄居した「葵の間」や徳川将軍御霊廟があり、限定で公開されているということです。
 たっぷりのウォーキングで幕末・明治の歴史を堪能したので、次は佐々木くんがウォーキング途中で予約しておいてくれた打ち上げ会場の「鳥番長」に移動しましょう。上野恩賜公園脇の線路側の道を歩き上野駅公園口に出て、パンダ橋を渡って昭和通りに入り「鳥番長」に到着です。たしかに今回の自主トレはよく歩きました。ふ~、疲れた。
 鳥番長は鳥の丸焼きが名物ですが、オーダーしてからかなりの時間がかかりました。ほかの料理を食べきって、もうタラフクになってから、ようやく本命の鳥の丸焼きが出てきました。アツアツの焼きたてを店員さんが見事な手さばきで取り分けてくれました。やわらかい鶏肉と楽しい話で盛り上がり、時間が瞬く間に過ぎていきました。そして、さすがは愛妻家の佐々木くん、最後に奥様のために鳥の丸焼きをお土産にしていました。

 

      浜離宮 三百年の松               上野寛永寺 根本中堂  

【撮影】佐々木くん(39組)・【報告】小久保(35組)