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第11回「復活・歩く会」合同自主トレ総集編

【イベント報告】掲載:平成30年1月22日

●品川編(平成29年2月12日開催)

コース:浜松町駅~江戸開城会見之地の碑~札の辻~御田八幡神社~高輪大木戸跡~(寄り道)~
     泉岳寺~大石良雄外十六人忠烈の跡(細川家下屋敷跡)~高野山東京別院~
     品川駅創業記念碑~北品川~新馬場(昼食)~品海公園~しながわ水族館(見学)~
     大森駅(打ち上げ) 約15キロ
参加者:石井くん(31組)、島田くん(33組)、阿部くん(34組)、小久保(35組)、
    飛田くん(37組)、堀米(旧姓坂本)さん、木本くん、(以上38組)、
    飯村くん、堀之内くん、佐々木くん(以上39組)      合計10名

概要: 今回は浜松町駅に集合して、旧東海道(現在は第一京浜と呼ばれている国道15号)で品川宿に向かいます。途中で赤穂浪士墓所である泉岳寺を参拝し、北品川駅から再び旧東海道を散策するコースです。
 江戸時代の品川宿は、「歩行新宿(かちしんしゅく)」「北品川宿」「南品川宿」の3つの宿場から構成され、総延長約2キロの大きな宿場町でした。平成23(2011)年9月19日開催の自主トレでは川崎駅から北品川宿まで歩きました。今回の自主トレではかつて田町駅近くにあった「高輪大木戸」から江戸を旅立ち、東海道の1番目の宿場だった品川宿に向かう設定です。そして最後に「しながわ水族館」でイルカショーを見学しました。
 浜松町駅南口改札に午前10時30分に集合し、浜松町駅金杉橋口から出発しました。私は数年前まで仕事関係で浜松町駅をよく利用していましたが、金杉橋口の階段を下りてみると昔の面影はなく、付近一帯は工事中となっていました。後で調べてみると、浜松町駅西口は再開発の真っただ中ということです。
 浜松町の飲食店街を抜け、遠くに東京タワーや増上寺を眺めながら第一京浜に出て、南に向かって歩きました。旧東海道は、金杉川(古川の地域称)に架かる金杉橋を過ぎると山手線に沿うように右にカーブを描きます。田町駅の手前、三菱自動車本社ビルのところには丸形の碑があり、「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地 西郷吉之助書」と記してありました。ここは江戸時代の薩摩江戸屋敷跡で、西郷隆盛と勝海舟が江戸城無血開城を決めたところです。さらに少し歩くと「札の辻」という交差点がありました。ここは東海道と三田通りの三辻(三叉路)となっています。この地には元和2 (1616)年に芝口門が建てられ、同時に高札場が設けられ、それが地名の由来となりました。しかし江戸市街の拡大に伴い、宝永7 (1710) 年に南700メートルのところに「高輪大木戸」が造られたため、高札場も移動したということです。
 次に1300年の歴史を持つ「御田八幡神社」に参拝しました。寛永5 (1628) 年に当地に遷座したということです。喧噪の第一京浜から一転して、ビルとビルの間の狭い入口を入ると、木々の中に社殿が静かに鎮座していました。
 さらに200メートルぐらい歩くと「高輪大木戸跡」の石垣がありました。江戸時代は石垣の後ろは海だったいうことです。ここは東海道から江戸市中へ入る入口にあたるため、東海道を西へ旅する人を見送る人々がここで宴会を催すなど、常に繁昌していたと云われています。
 次の「泉岳寺」に詣でようとしたとき、島田くんから面白いところがあるということ。付いていくことにしましょう。
 でも、ほんとに付いて行って大丈夫?
 島田くんは第一京浜を品川駅方面に歩くとすぐの「高輪センタービル」の脇道を入って行きました。すると「高さ1.5メートル注意」の標識があるトンネルが見えてきました。さらに歩くと「自転車から降りて押してください」という注意が書かれていました。ここは田町車両センターの北側、田町駅を過ぎて新幹線が山手線から離れ始めるところです。このすぐそばに2020(平成32)年までに山手線の新駅(西日暮里以来49年ぶりの新駅)が完成する予定です。
 トンネル内は身長165センチの小久保は天井にぶつからないで歩けましたが、長身の石井くんは背をかがめて窮屈そうに歩いていました。しかもタクシーがかなりの速度で車道側を通過していきました。トンネルの長さは約200メートル、ようやく反対側に出ましたが、そこには「高浜公園」があるだけで、他には何もありません。その上、高浜公園から泉岳寺に行くにはもう一度この低いトンネルを潜るしかないようです。石井くんにはもう一度の苦行(?)が待っていました。
 島田くんの案内で不思議なトンネルの道草をした後、本来のコースの「泉岳寺」に向かいました。都営浅草線「泉岳寺」駅前の横断歩道で第一京浜を渡り、ビルの脇に祀られている「車町稲荷」を過ぎると「萬松山」と書かれた「泉岳寺」の中門が見えてきました。
 泉岳寺は慶長17(1612)年に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院で、寛永18(1641)年の寛永の大火によって焼失後、現在の高輪の地に移転しました。その時の将軍・家光が毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じて再興させたということです。そのため、忠臣蔵の浅野家との縁がありました。山門を潜り本堂にお参りしてから、赤穂義士墓所を参拝しました。
 泉岳寺山門前に「大石内蔵助吉雄銅像」がありました。そして、その先にある和菓子屋「義士堂」脇のすごく狭い道に入り、高輪中学・高等学校の間を通り、かなりきつい階段を登って「大石良雄外十六人忠烈の跡」に行きました。現在は「高輪一丁目アパート」に接した一角で塀で囲われたところです。江戸時代は熊本藩細川越中守下屋敷で、元禄16(1703)年2月4日に大石内蔵助ら17名が切腹させられた地です。
 次は、飛田くんリクエストの「高野山東京別院」に参りました。飛田くん曰く「10分で四国お遍路ができる」ということです。四国の札所から持ち帰ったお砂を全て納め、八十八ヶ所のお砂踏みができるお寺として知られているようです。実際は延宝元(1673)年に高野山真言宗総本山金剛峯寺の別院として「高野山江戸在番所高野寺」として建立されたということで、幕府との宗務全般の交渉、および幕府の諸通達を全国の古儀真言寺院に達する触頭(ふれがしら)の責務を担う重要な施設だったとのことです。
 お手軽な“お遍路”で功徳を積んだので、次は高輪二丁目交差点に向かう急な下り坂を降り、品川駅前の一連のホテルを眺めながら、お昼を予定している「そば処 いってつ」を目指しました。しかし、北品川駅手前の踏切は開かずの踏切で、かなりの時間を待ち、しかも車道が横断禁止のため、遠回りして歩道橋を渡ることになりました。北品川駅からは「北品川本通り商店街」となっている旧東海道を歩きました。「いってつ」は北品川駅から南に300メートルぐらいのところにありました。みんながちょうど注文を終えたころ、飯村くんがようやく到着・合流しました。私は「あさりと海苔が熱々ピリ辛のつけ汁」の品川宿そばを頼みました。ここでゆっくりのお昼休憩をとりました。
 午後は、まず「いってつ」からすぐ近くの「品海(ひんかい)公園」に立ち寄りました。ここは日本橋から2里にあたるところで、「品川宿」の碑が建っていました。そして「品川宿本陣跡」に立ち寄ってから、目黒川に架かる「品川橋」で記念写真(写真下左)を撮りました。この品川橋は「新馬場駅」に近く、ここから南側が「南品川宿」となります。
 そして旧東海道しばらく歩くと、「青物横丁駅」のところに「品川寺」というお寺がありました。大同年間(806~810年)に開創され、品川で最も古い寺ということです。ここで「品川寺」は何と読むかということが話題となりました。もちろん安直に「しながわてら」とは読みません。皆さん考えてみてください。
 正解は、「ほんせんじ」です。お昼にお酒を飲んでほろ酔い加減の堀之内くんに、他のメンバーが何度も繰り返して同じ質問を出しましたが、そのたびに正解の「ほんせんじ」と答えていました。お酒が入っているとかえってしっかりしている(?)のかもしれません。
 さらに旧東海道を歩くと、「贈 太政大臣岩倉公御墓参拝道」という古い石碑が目に止まりました。そこで参道の方向を眺めると、第一京浜のために途切れています。地図から当たりをつけると、このお寺は紅葉が有名で豊国や広重の浮世絵の題材にもなっている「海晏寺(かいあんじ)」のようです。少し遠回りして第一京浜を横断し「海晏寺」まで行ってみましたが、残念ながら岩倉具視の墓所らしいものを見つけることはできませんでした。後で「しながわ観光協会」のホームページをみると、「一般の参拝は認められていない。」と記載されていました。見つからないわけですね。無駄骨!
 「海晏寺」から旧東海道に戻り、立会川に架かる涙橋の付近で「浜川砲台跡」という幟を見つけました。好奇心から私と堀之内くんが幟を辿って歩くも、なかなか砲台らしきところは見つかりません。すると近くにいらした方が親切に教えてくださり、なんとか「区立新浜川公園」内の「浜川砲台跡」に辿り着くことができました。幕末、土佐藩は品川鮫洲に抱屋敷を持っており、この砲台はペリー再来航の嘉永7(1854)年に備えて造られたものを平成27(2015)年に公園内に再現したということです。私たち2人が幕末の探検をしている間、他のメンバーは涙橋でのんびりと休憩をとっていました。
 まもなく午後3時近くになりました。旧東海道を南大井1丁目で離れ、海の方向に歩くと、「花とひろばと水と緑の公園」をテーマとする「しながわ区民公園」の入口が見えてきました。公園内には野球場やプールなどのスポーツ施設があり、公園の南側には「しながわ水族館」がありました。イルカやアシカのショーが人気です。ここでの時間は打ち上げの居酒屋が開店する午後5時までのつなぎのため、それぞれ自由行動で水族館を見学することにしました。私は人気のイルカショー(午後3時30分開演)に間に合いましたが、会場は満席だったので立ち見でした。イルカショーの後、堀米さんはご用事があるということで、ここでお別れとなりました。
 残った男性陣は午後4時30分ごろに水族館を後にし、大森駅まで約1キロを歩きました。いざ宴会と大森駅付近でお店を探しましたが、佐々木くんが行きたかった大森らしい雑駁な雰囲気のお店は日曜日のため開いておらず、まだ開店前でしたが親切にも入店させてくれた「酒処 呑兵衛」(写真下右)で、大森駅のホームを臨みながら賑やかな打ち上げを行いました。

 
     目黒川に架かる品川橋           打ち上げ(呑兵衛@大森駅傍)

【撮影】佐々木くん(39組) 【報告】小久保(35組)

●行徳編(平成29年3月12日開催)

コース:南行徳駅~今井の渡し旧跡~(旧江戸川堤ジョギングコース)~常夜灯~笹屋うどん跡~
     権現道~徳願寺~妙好寺~江戸川水門と閘門~行徳橋~西船橋駅(打ち上げ) 約10キロ
参加者:石井くん(31組)、阿部くん(34組)、小久保(35組)、飛田くん、
    高沢くん(以上37組)、飯村くん、堀之内くん(以上39組) 
    合計7名 ただし高沢くんはランチのみ参加。

概要: 今回は東京メトロ東西線の行徳駅付近を散策し、歴史的な価値のある可動堰を備えた行徳橋を渡り、最終的には西船橋駅までを歩きます。私は行徳付近は初めてなのですが、マンションが立ち並ぶ新しい街のようです。しかし、江戸時代の行徳は塩生産地として、さらに成田詣での宿場町として、すこぶる賑わっていたそうです。
 南行徳駅前のサイゼリヤに午前11時45分に集合し、まずはイタリアンランチ+ワインで腹ごしらえ。そして、ほどほどに(?)飲んだ後、ようやく重い腰をあげました。今回は旧江戸川沿いのアップダウンのないコースなので、少しぐらいのワインならばたぶん大丈夫でしょう。残念ながら高沢くんは体調不良のためウォーキングは控えたいということなので、ランチのみでお別れです。
 以上のような経過で、6人でのウォーキングがスタートしました。
 まず南行徳駅の西側に流れる旧江戸川に架かる今井橋を目指しました。ここはかつて「今井の渡し」があったところで、今井の渡しは1631(寛永8)年に開設され、初代の今井橋が架けられる1912(大正元)年まで交通の要所として、例えば特産の塩の積み出しなどで活用されていました。
 「今井の渡し旧跡」からは旧江戸川沿いに整備されている「旧江戸川提ジョギングコース」を上流に向かって歩きました。途中に欠真間(かけまま)排水機場がありました。珍しい読み方ですが、「欠真間」とは大洪水で上流にある真間村の一部が欠けて流された時、その土砂でできた下流の新しい土地を指すのだそうです。さらに進んで押切排水機場を過ぎると、間もなく「常夜灯」(写真下左)がありました。行徳の「常夜灯」は1812(文化9)年に江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が航路安全を祈願して成田山に奉納したものだそうです。成田詣での宿場町らしい史跡です。この航路を行きかう船は「行徳船(ぎょうとくぶね)」と呼ばれ、本行徳の船場から江戸川を下り日本橋小網町の行徳河岸まで就航していました。
 「常夜灯」のところから私たちは堤防から離れて街中に移動し、行徳街道との交差点のところにある「笹屋うどん跡」に行きました。ここは、東海道中膝栗毛で有名な十辺舎一九も立ち寄ったと云われる江戸時代人気のうどん店だったそうです。「笹屋うどん跡」から狭い路地を入り「権現道」にでました。「権現道」は徳川家康(「権現様」は敬称)が鷹狩の時に通ったと伝えられる幅2メートルぐらい古い道です。沿道には多くの寺社があり、江戸時代の佇まいが今も残るところでした。
 「権現道」を抜け、「寺町通り」を妙典駅の方向に歩き、宮本武蔵と所縁がある「徳願寺」に行きました。「徳願寺」は、もともと勝願寺という名のお寺でしたが、1610(慶長15)年に徳川家康の帰依により、徳川の“徳”と勝願寺の“願”をとって命名されたということで、円山応挙筆と伝えられる幽霊の絵や宮本武蔵供養のための石地蔵を所蔵しています。市川市指定文化財となっている山門で集合写真(写真下右)を撮りました。
 次は、行徳バイパスを渡り、江戸時代の木造切妻茅葺(きりつまかやぶき)の和様四足門の山門を持つ妙好寺に行きました。江戸時代、檜山騒動(1714(正徳4)年)(注)の義士・相馬大作が、旅絵師に姿を変え、潜居したと伝えられているお寺です。

 (注)弘前藩(津軽氏)・盛岡藩(南部氏)間で生じた境界線紛議。幕府により紛争地は弘前藩の帰属と裁定されたため、盛岡藩に不満をもたらした。なお、この一件が後の相馬大作事件(1821(文政4)年)の一因となっており、明治以降、講談や小説で大きく取り上げられた。

 「妙好寺」を後にして江戸川方面を眺めると「水道橋」が架かっているのが見えました。さらに新行徳橋に向かう行徳バイパスの下を潜り、「河原」という町名に出ました。たぶん江戸川に近づいてきたのでしょう。さらに行徳街道を渡り、江戸川の堤防に登って少し歩くと、旧江戸川と現在の江戸川との分岐点に出ました。旧江戸川はこの地点で大きく曲がっており、大きな洪水が発生しやすそうです。
 そこから堤防の道を戻って、次は行徳橋に向かいます。行徳橋は1956(昭和31)年に完成しましたが、老朽化したため架け替え工事中でした。行徳橋には可動堰が設置されており、平常時はゲートを閉めて首都圏の生活用水に海水が混入しないよう塩分遡上を防止するとともに、洪水時にはゲート操作により堰下流に洪水を安全に放流するということです。可動堰部分の補修工事は2014(平成26)年に完了し、今後、橋梁の架け替えが行われるようです。狭い歩道を、前方から頻繁にくる自転車を避けながら歩くのはなかなか大変でした。
 行徳橋を渡ると、ここから行徳街道は本八幡駅の方向に向かいますが、私たちはショートカットして西船橋駅に向かって歩きました。途中の東京メトロ東西線の原木中山駅で小休止を取り、そこから東西線に沿って歩きました。まもなく京葉道路にぶつかったので渡りたかったのですが、渡れるところを探しながら京葉道路に沿ってしばらく歩くしかありませんでした。ようやく真間川を渡ったところで京葉道路の下を潜ることができました。さらに道なりに歩き、京葉道路原木ICからの出口交差点を渡り、西船橋駅南側のごちゃごちゃした狭い通りを歩くと、ようやく西船橋駅が見えてきました。駅の南口には居酒屋が少なかったので、北口側に廻って、ちょうど開いていた居酒屋で打ち上げを行いました。
 今回は行徳方面に行き、江戸の佇まいを残す寺院や街並みを散策しました。次の機会には成田街道の次の宿場町となる船橋から散策してみましょう。

 
行徳常夜灯                         徳願寺  

【撮影・報告】小久保(35組)

●国会議事堂編(平成29年4月30日開催)

コース:有楽町駅~有楽稲荷神社(高槻藩永井家上屋敷跡)~日比谷見附門跡~
     日比谷公園(萩藩毛利家上屋敷跡・佐賀藩鍋島家上屋敷跡)~外桜田門~
     櫻の井・憲政記念館(彦根藩井伊家上屋敷跡)~(昼食)日比谷公園グリーンサロン~
     国会議事堂衆議院~山王日枝神社~赤坂サカス(広島藩浅野家中屋敷跡)~
     赤坂御用地(紀伊藩徳川家中屋敷跡)~豊川稲荷東京別院(西大平藩大岡家下屋敷跡)~
     赤坂見附門跡~清水谷公園(紀伊藩徳川家上屋敷跡)~
     ホテルニューオータニ(彦根藩井伊家中屋敷跡)~上智大(尾張藩徳川家中屋敷跡)~
     四ツ谷駅~四谷見附跡~市ケ谷駅(ちょっと休憩後、打ち上げ)
参加者:島田くん(33組)、阿部くん、深津くん(以上34組)、小久保(35組)、
    石原(旧姓小野)さん、飛田くん(以上37組)、酒井(旧姓武石)さん、
    海老澤くん(以上38組)、飯村くん、堀之内くん、大島くん(以上39組)
    合計11名。ただし、石原さんはお昼から、大島くんは打ち上げから参加。

概要: 午前11時にJR有楽町駅日比谷口改札出口を集合場所としましたが、深津くん(34組)が道に迷ったのか(?)、少し遅れての到着。11時をまわって全員が元気に揃いました。今回は酒井さん(38組)のリクエストで、国会議事堂内部を見学して、さらに江戸時代の大名屋敷跡を散策する企画です。上記「コース」のところにカッコ書きで大名屋敷名を記載しましたので、参考にしてください。
 まず、有楽町電気ビルヂング脇に鎮座する有楽稲荷神社でウォーキングの安全を祈願し、日比谷公園に向けて歩き出しました。日比谷公園には、かつては江戸城に登城するための「日比谷御門」と「日比谷見附」がありました。現在も野面積み(のづらづみ)の石垣が残っています。また石垣の周囲の濠は「心字池」として残されています。公園内にある綺麗に花が飾られた「フェリーチェガーデン日比谷」では結婚式の準備が進められていました。
 次に「外桜田門」に立ち寄り、この門外の堀端で起きた「桜田門外の変」(1860(万延3)年)に思いを巡らせました。そしてかつては彦根藩井伊家上屋敷屋内にあり、名水として有名だった「櫻の井」(現在は憲政記念館敷地内)を訪ねました。さらに国会議事堂正門前を通って霞門から日比谷公園に戻り、「日比谷グリーンサロン」に移動しました。ここで昼食を取りながら、途中参加の石原さん(37組)を待ちました。みんなが食べ終わるころ、大きな荷物を持った石原さんが到着しました。女子会でお泊りだったようです。国会議事堂には大きな荷物を持って入るのは避けたほうが良いので、この辺の地理に明るい阿部くん(34組)の案内で近くの霞ケ関駅内のコインロッカーに預けました。
 次は衆議院の参観です。まず、「衆議院面会受付所」内の窓口(土曜、日曜及び祝日対応)で手続きを済ませました。この日は参観者が多数のためか、参観までかなりの時間を待たされました。国会議事堂は1936(昭和11)年に竣工した古い建物で、参観コースに従って狭い階段を登り、傍聴席まで案内されました。傍聴席に座ってみると見慣れた景色と思えました。その席の目の前にテレビカメラをセットする席があり、ニュース映像と同じ場所からなのだと納得しました。さらに中央広間に飾ってある伊藤博文公、板垣退助公、大隈重信公の銅像を広間階上の廊下から眺めることができました。最後に国会議事堂正面で写真撮影時間が設けられており、おのぼりさんのように記念写真(写真下左)を撮りました。
 霞ケ関駅のコインロッカーから石原さんの荷物を取り出し、溜池山王方面に歩き、日枝神社を詣でました。さらに赤坂サカスを抜けて、静かな佇まいの住宅地を通って赤坂御所に到着しました。そして豊川稲荷東京別院にお参りしました。ここで島田くん(33組)が博識を披露、豊川稲荷東京別院は「神社」ではなく「寺院」なのだと解説してくれました。たしかに縁起によると「豊川ダ枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)」をお祀りしているとのことで、「豊川ダ枳尼眞天」が稲穂を荷ない、白い狐に跨っておられることからいつしか「豊川稲荷」が通称として広まったということです。
 ここでハプニング!深津くんが見当たらなくなりました。しばらく待って、携帯電話にかけてみると、先に行ってしまったと勘違いして、赤坂見附方面に歩きだしているということ。私たちは急いで追いかけることになりました。
 すぐに深津くんと合流して、赤坂見附駅前を通り、「赤坂見附跡」に行きました。「見附」とは江戸城の見張番所で、主要な見附は概ね36カ所あったと伝えられており、「江戸城三十六見附」と呼ばれていたということです。
 次は大型複合施設「東京ガーデンテラス紀尾井町」の中を抜け、清水谷公園に向かいました。清水谷公園は紀州藩上屋敷跡ですが、この付近は大久保利通公が暗殺(1878(明治11)年、紀尾井坂の変)された地で、公園内には哀悼碑が建立されていました。
 次は、酒井さんたっての願いで、清水谷公園の向かいにあるホテルニューオータニ日本庭園を散策しました。この庭園は元は加藤清正公の下屋敷で、その後、井伊家の庭園となったということで400年余りの歴史を有し、広さは4万平方メートル、「池泉(ちせん)回遊式」で池や滝が配置され、樹木の木陰と沢山の花々のなか大勢の入場者が散策していました。
 昼食以降は休憩をとらずの歩行だったのでそろそろ疲れてきましたが、まもなく四ツ谷駅。元気を出して四ツ谷駅を過ぎ、四谷見附に行きました。これで江戸城三十六見附のうち、本日は3つを訪れたことになります。そしてお堀に沿って散策道を市ケ谷駅まで歩きました。駅のそばの「TO THE HERBS市ヶ谷店」でようやく休憩です。お店に入ると直ぐに大島くんから電話があり、打ち上げ場所ではなくここで合流することができました(写真下右)。ビールやお茶でのどを潤し、本日のルートを振り返ったりしました。
 今回は酒井さんと石原さんは打ち上げには参加されないため、市ケ谷駅改札までみんなで送り、男子会として打ち上げを行いました。市ケ谷駅から仕事場が近い飛田くんの案内で…と考えましたが、「この辺はよく分からん」ということなので、取りあえず駅から南に歩くと、ビルに「ママ食堂」という看板が見えたので入ってみました。夕方5時開店ということで、まだ誰もいないお店に入って行くと、「モツ煮」屋さんでした。さらにBGMは昭和を懐かしく思い出される曲で、丁度このメンバーにピッタリの雰囲気で、広いテーブルを占有して打ち上げを行いました。一日、お疲れさまでした。

 
    国会議事堂               休憩中:TO THE HERBS市ヶ谷店

【撮影・報告】小久保(35組)

●足利編(平成29年5月20日開催)

コース:足利市駅~女浅間神社~渡良瀬橋歌碑~足利織姫神社~織姫公園(機神山山頂古墳)~
     八雲神社~銀釜(昼食)~鑁阿寺~足利尊氏公像~足利学校~太平記館~ 足利駅=
     (両毛線)=富田駅~あしかがフラワーパーク(打ち上げ後、解散)
参加者:汀くん(34組)、小久保(35組)、飛田くん(37組)、堀之内くん、
     佐々木くんご夫妻 (以上39組)      合計6名

概要: 5月の自主トレは当初は5月13日に開催予定でしたが、私の都合のため延期とさせてもらい、5月20日の開催となりました。そのため「あしかがフラワーパーク」の「大藤」の見ごろは過ぎてしまいました。しかし薔薇の花の香り立つ初夏の季節となっていました。
 朝の東武線に少し遅れが出ていましたが、皆さん定刻前の10時20分には足利市駅に集合していました。ここで集合したのは6人でしたが、佐々木くんの奥様は「あしかがフラワーパーク」に一足先にシャトルバスで行くということで、足利市内散策は男組5名となりました。
 佐々木夫人の乗車を見送り、足利市駅から渡良瀬川の方向に歩き出すと、佐々木くんから「『渡良瀬橋』という歌、知っている?」という問いがありました。今回の自主トレ先が足利市ということで、佐々木くんが事前調査したところ、森高千里さんの歌碑があることを知ったということです。「渡良瀬橋」という曲は、作詞:森高千里、作曲:斉藤英夫で、平成5(1993)年に発売された「渡良瀬橋で見る夕日をあなたはとても好きだったわ・・・」という歌いだしの曲です。後年、足利のイメージアップに寄与したということで、平成19(2007)年に足利市が歌碑を完成させたということです。しかし、佐々木くんは「渡良瀬橋」の歌碑が何処にあるのかということまでは分からないので、是非、その歌碑を探してみたいということでした。
 東武伊勢崎線足利市駅は渡良瀬川の南側に位置し、JR両毛線足利駅は北側にあります。足利駅付近には「鑁阿寺(ばんなじ)」や「足利学校」などの史蹟があります。足利市駅から渡良瀬川の堤防に出ると、歌詞にある「トラス橋」は500メートルぐらい上流に見えました。当初の予定では足利市駅のすぐそばの「中橋」を渡って、足利氏邸宅跡に建つ「鑁阿寺」に向かう予定でしたが、急遽、変更して遠くに見える「渡良瀬橋」に向かうことにしました。
 堤防を歩いて渡良瀬橋に近づいてみると、その袂には「女浅間神社」が祀られていました。ここは足利市の重要文化財に指定されている「ペタンコまつり」の神社だそうです。「ペタンコまつり」とは子供たちの無病息災を祈念して、額に御朱印を押してもらうお祭りということでした。この「女浅間神社」は女の子がお参りする神社で、近くの山の上には「男浅間神社」が祀られているとのことでした。
 「女浅間神社」を参拝して、傾斜してしかも急な石段を注意しながら降りて「渡良瀬橋」を渡ると、向こうの丘の上に「足利織姫神社」が祀られているのが見えました。織物業を守護する足利市のシンボル的な社ですが、その前に、「渡良瀬橋」の歌碑を探しましょう。
 「渡良瀬橋、歌碑」をスマホで検索したところ「通三丁目児童公園」にあるということで、さっそく行ってみました。しかし公園内ではなかなか見つからず探しあぐねましたが、ふと児童公園から堤防に通じる螺旋階段が目に止まり、試しに登ってみると、道路沿いの「渡良瀬橋」が見渡せる歩道に「渡良瀬橋」の歌が流れる歌碑がありました。佐々木くんは歌詞が彫られた歌碑、森高千里さんの歌声、そして、渡良瀬橋を動画で撮影していました。
 佐々木くんの目的を達成したので、次は丘の上の「足利織姫神社」の社殿に詣でます。伊勢国の神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)から機織りを司る織女「天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)」と織師「天御鉾命(あめのみほこのみこと)」の二柱が分祀されています。229段の石段をゆっくり登りきると、「織女」と見間違えるようなかわいい女子高生からパンフレットをいただきました。話をきくとボランティア活動でパンフレットを配っているということでした。また、境内には緋毛氈が真っすぐに社殿に延びていました。今日は結婚式があるようです。新郎新婦と思しきカップルが写真撮影をしていました。
 足利織姫神社の脇は織姫公園になっており、私たちはさらに上のレストハウスがあるところまで登りました。山頂(標高118メートル)には機神山(はたがみやま)山頂古墳がありました。足利の街を一望して、石段を下りました。
 足利織姫神社前には「渡良瀬橋」の歌詞にも出てくる「八雲神社」がありました。しかし、どこかさびれた感じでした。後で調べてみると、足利市内には5つの「八雲神社」があり、ここは足利市通の八雲神社ということでした。残念ながら、「渡良瀬橋」の歌詞の「八雲神社」は緑町にある社だということです。
 まだお昼時刻には早いのですが、足利市の目抜き通りを通って、予定している「銀釜」に参りましょう。「銀釜」は創業90年の老舗釜飯店ですが、定食類もありました。それぞれが好みのランチメニュー、もしくは、釜飯を選んで、午後の英気を養いました。
 「銀釜」を出て鑁阿寺へ歩きだそうとすると、「足利東映」と書かれた錆び付いたアーチ看板が見え、その奥には廃墟と思しきビルがありました。ここは中心街のはずなのにと思いましたが、あとで調べてみると「廃墟マニア」には有名なところのようです。
 次は鑁阿寺です。鑁阿寺の始まりは建久7(1196)年に、源姓足利氏二代目の足利義兼(あしかがよしかね。戒名:鑁阿)が邸内に持仏堂(じぶつどう)を建てたことといわれています。その後、三代目の足利義氏(あしかがよしうじ)が堂塔伽藍を建立し、足利一門の氏寺としたということです。そのため、現在でも、四方に門を設け、境内の周りには土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されています。
 次は、足利尊氏公像の脇を通って、足利学校です。日本最古の学校なので扁額は「学校」とだけ記載されていました(写真下左)。足利学校は、大分県日田市の咸宜園跡、岡山県備前市の旧閑谷学校、および、水戸市の弘道館とともに「近世日本の教育遺産群」として日本遺産に認定されています。
 足利学校の創建には諸説ありますが、古くは奈良時代の国学の遺制説や平安時代の小野篁(おののたかむら)説(天長9(832)年))まで遡れるということです。それから歴代の庠主(しょうしゅ、現代の校長に相当)が教育を守り続けましたが、明治5(1872)年に廃校となってしまいました。その後、跡地には小学校や図書館が建ち、引き続き教育の場として利用されていましたが、1980年代に小学校などの建物が移転となったため、建物と庭園が10年の歳月を要して復元され、平成2(1990)年に江戸時代中期のもっとも栄えた時分の様子が再現できたということです。
 足利学校内はボランティアガイドの方に案内をお願いして見学しました。最後の方丈(講義室)では国語の試験が用意されており、みな一生懸命答えを記入しました。ガイドの方の話では、点数に関係なく、「足利学校入学証」の裏面にスタンプを押してかまわないということなので、5名全員が目出度く卒業できました。
 足利学校の通りの反対側には、大河ドラマ「太平記」(平成3(1991)年NHK放送)の放映を記念して建てられた「太平記館」がありました。ドラマに関連して主演の真田広之が付けた甲冑などが展示されていましたが、建物の主体はお土産物店とちょっとした休憩スペースになっています。「あしかがフラワーパーク」に行くための両毛線の電車の時刻までしばらく休憩させてもらいました。
 次の「あしかがフラワーパーク」には隣の富田駅で下車しました。駅を降りて県道67号線を足利方面に歩き、狭い側道を通って、両毛線の下を潜りました。ちょっと分かり難い道順ですが、15分ぐらいで到着しました。そして現地に先行してのんびりと一日を過ごされていた佐々木夫人と合流して、レインボーガーデンの香り立つ艶やかな薔薇を鑑賞しました(写真下右)。園内の至る所にバラや季節の花々が咲いていましたが、残念ながら「大藤」は見頃を過ぎていました。藤の花はまた別の機会としましょう。
 打ち上げは園内のレストラン(ウェステリア)です。ここから帰るルートは両毛線と東武線と異なるので、ビールを飲みながらそれぞれの電車の時刻に合わせて、帰路につきました。

 
  足利学校                    あしかがフラワーパーク
                          レインボーガーデン

【撮影】佐々木くん(39組)・【報告】小久保(35組)

●水戸保和苑編(平成29年6月18日開催)

コース: 水戸駅南口=(浪漫バス)=保和苑~ロマンチックゾーン散策~李厨房(昼食)~
     保和苑=(浪漫バス)=水戸市植物公園=(浪漫バス)=千波湖西駐車場~
     水戸駅 (打ち上げ後、解散)
参加者:高塩くん、片岡くん(32組)、堂(旧姓飛田)さん、飯村稔くん(33組)、
      川島(旧姓唯根)さん(34組)、小久保(35組)、飛田くん(37組)、
     酒井(旧姓武石)さん(38組)、堀之内くん(39組) 合計9名

概要: 川島さん(34組)と飛田くん(37組)からのリクエストで「水戸のあじさいまつり」(6月中旬~7月上旬開催)に合わせて自主トレを企画しました。この企画により、高塩くん(32組)から「わが地元開催ありがとうございます。」というメールをいただきました。ちょうど、あじさいまつりの期間中の6月17~18日はボンネットバスが無料で運行されるということなので、この漫遊バスを利用して水戸駅からの周遊コースとしましょう。ちなみに「助さん号」、「格さん号」の2台のボンネットバスが運行されますが、「格さん号」は朝ドラ「ひよっこ」(平成29(2017)年4~9月NHK放送)のロケに使用された赤い色のバスです。
 私が到着したときには水戸駅南口7番バス乗り場には既に10名以上の列ができていました。定刻の10時15分にバスが到着しましたが、残念ながら「格さん号」ではありませんでした。ボンネットバスの内部は狭いので全員が乗れるかと危ぶまれましたが、スペースを譲り合って、後方に並んでいた片岡くん(32組)と飯村稔(33組)も含めて全員無事乗車。車はゴトゴトと梅幸トンネルを抜けて、15分ほどで保和苑近くの「蕎麦処みかわ」の駐車場に到着しました。バスから下車すると、高塩くん(32組)が冷たい飲み物を用意して待っていてくれました。
 今日は水戸在住の高塩くんの案内で散策します。保和苑周辺は、太古のロマン、万葉ゆかりの湧き水から、幕末の水戸藩関連、近代に至る歴史的遺産が多いことから「ロマンチックゾーン」と呼ばれているのだそうです。
 まず崖のそばの狭い道を歩き、横の石柱に「水戸八幡宮」と書いてある階段を登りました。駐車場を抜けると鳥居が見えてきました。八幡宮は文禄元 (1592) 年に佐竹義宣公によって創建されましたが、佐竹氏は秋田に移封となり、水戸徳川家の領地となりました。そして、水戸三代藩主綱條公の時代(宝永6 (1709) 年)に現在の白幡山神域に鎮斎されたということです。八幡宮で記念写真を撮りました。(写真下左
 境内には山あじさいを中心に約60種5,000株のあじさいが植えられているということで、あじさい園の案内に従って満開のあじさいの花の間を散策していくと、烈公御涼所(れっこうおすずみどころ)というところに出ました。樹齢400年以上といわれる大ケヤキが涼しげな陰を作っていました。遠くに那珂川と青々とした田園風景を眺めることができました。
 次は茨城中学です。飛田くんの出身校ということで、彼は正門のところで盛んに懐かしがっていました。校舎の脇を通り、祇園寺にある中村彝(つね)の墓所を訪ねました。中村彝は水戸市に編入された旧仙波村出身で、黒田清輝の指導を受けた、大正期にかけての洋画家です。代表作は「エロシェンコ氏の像」です。
 再び茨中まで戻ってくると、今度は川島さんが「小さい頃はこの近所に住んでいた」と話しだしました。できればその当時の住所を訪ねたいということで、スマホを道案内に当時の住所のところに行ってみましたが、残念ながらすでに住居はなく、駐車場になっていました。
 川島邸跡からしばらく住宅街を歩くと、保和苑に通じる石段が見えてきました。
 保和苑とは、大悲山保和院(だいひざんほわいん)桂岸寺(二十三夜尊)に隣接する庭園のことです。遠く元禄時代、徳川光圀公が寺の庭を愛されて保和園と名付けられたのが始まりといわれています。昭和25(1950)年に桂岸寺より水戸市へ移管されましたが、昭和30年代に地元と共同で苑を拡張してあじさいの植栽が行われたということです。現在、保和苑には、西洋あじさい・がくあじさいなど約100種6,000株があり、この日は見ごろを迎えていました。保和苑内では野点が行われており、堀之内くん(39組)はしばらく並んでお点前を頂戴したということです。また、水戸市マスコットキャラクター「みとちゃん」が来ていて、酒井さん(38組)はツーショットを撮ってもらっていました。
 保和苑の隣には幕末の天狗党の乱での殉難者の墓所(水戸殉難志士の墓)や、降伏した敦賀で志士が捉えられていた鰊蔵を移築した「回天館」があります。また、隣接する水戸共同墓地にも向かい、藩主徳川斉昭を助けて藩政改革をすすめ、尊攘派の指導者として活躍した藤田東湖先生の墓や、儒学を学び光圀公に認められ大日本史の編纂にあたった安積格之進(水戸黄門の格さんのモデル)さんの墓も尋ねました。
 次は太古のロマンを感じる場所です。共同墓地から少し歩くと愛宕山古墳群がありました。現存しているのは愛宕山古墳と馬塚古墳です。特に愛宕山古墳は全長136.5mに達する大きな前方後円墳で、那珂川流域では最大規模のもの。6世紀に那珂川両岸を支配していた豪族の墓と推定されているようです。現在はこんもりとした形で全体が林に覆われており、静かな佇まいを見せていました。古墳に祀られた愛宕山神社を過ぎて、少し下ったところに「曝井(さらしい)」が竹林の中にありました。「三栗(みつくり)の中に向へる曝井の絶えず通はむ彼所(そこ)に妻もが」と万葉集に歌われた萬葉の遺跡です。傾斜地に小さな泉が沸いていました。
 ロマンに浸っていると時間の過ぎるのも忘れるようです。気づけば12時を大きく回っていました。では、昼食を予定している「李厨房」に急ぎましょう。末広三丁目交差点から看板が見えましたが、建物はまるで廃墟(?)でした。高塩くんによると、地震の後テナントとして入っていたお店が次々に撤退して荒れたままになっているが、その中華料理店は現在でも営業しているということでした。高塩くんが率先して入って行き、それに恐る恐る付いていくと、問題なく営業していました。メニューを見るとランチが500円からということで格安なお店でした。ただし飲み物はご自由にということでしたが、コーヒーはなかなか淹れられず、飛田くんが悪戦苦闘の末、人数分をなんとか淹れてくれました。
 昼食後は「蕎麦処みかわ」の駐車場まで戻り、漫遊バスに乗車して「水戸市植物公園」まで移動します。今度は赤いボンネットバスかと期待しましたが、青い「助さん号」でした。ほぼ満員の車内で揺られること30分、水戸市小吹町にある清掃工場に隣接して設けられている水戸市植物公園は昭和62(1987)年に竣工した清掃工場の余熱を利用した施設です。いろいろな植物に関する企画展示があるのですが、「水戸植物公園」で下車したのは残念ながら私たちだけでした。
 高塩くんによると、新しく「水戸養命酒薬用ハーブ園」が開設されたということでした。薬草を通した新たな賑わいの創出が狙いだそうです。ハーブを摘み取り、香りを楽しめるようになっていました。また温室にはバナナの花が咲いていました。さらに園内にはあじさい(写真下右)や菖蒲などの季節の花々が咲き誇っていました。池には大量の鯉が住んでおり、飛田くんが手をたたくと餌をくれるものと思われたのか、岸に上がらんという勢いで集まってきました。
 植物公園は約一時間の散策でした。次のバスは16時05分発ということなので駐車場まで戻りました。到着したのは、待望の赤いボンネットバス「格さん号」でした。青いボンネットバスよりもさらに狭い車内でした。これらのバスは、特定非営利活動法人「日本バス文化保存振興委員会」が保存しているとのことでした。約20分で千波湖西駐車場に到着しましたが、ここから水戸駅までの2.5キロは歩くしかないようです。約30分、千波湖を眺めながらのウォーキングも楽しむことができました。
 打ち上げは「ワイン食堂パッチョ水戸オーパ店」です。打ち上げには堂さん(33組)も参加してくれました。ワインとイタリア料理を堪能しながら、水戸の観光振興の話にも花が咲き、激論になりました。

 
    水戸八幡宮                        水戸市植物公園

【撮影・報告】小久保(35組)

●清水公園BBQ編(平成29年7月29日開催)

場所: 清水公園BBQ場
参加者:雨澤さん(31組)、川島さん(34組)、小久保(35組)、飛田くん(37組)、
     堀米さん、 江戸くん(以上38組)、堀之内くん、佐々木くん(以上39組) 合計8名

概要: 私が住む飯能を車で出発するときにはどんよりした曇り空でしたが、圏央道を経由して国道16号を通って野田市に近づくとポツリポツリと降り出しました。午後3時、買い出し隊の川島さん、堀之内くん、佐々木くん、小久保の4名は清水公園駅西口で待ち合わせ、近くのベイシアというスーパーで食材を仕入れました。江戸くんが持参してくれる海鮮食材の量がどのくらいかまだわからないため、ちょっと買いすぎかも?と心配しながら購入しました。
 購入を終え、BBQ場に搬入しようとしたまさにそのとき、なんと大雨になってしまいました。そのため、清水公園の駐車場でテレビを見ながら、しばらくの間、雨の様子を見守りました。幸い、大洗の新鮮な食材を調達してくれた江戸くんから「清水公園駅にまもなく到着」と連絡があった時刻には雨が小降りになったので、活動再開です。
 川島さんは先にBBQ場に行ってくださり、駅から歩いてやってきた飛田くんと合流し、事前受け付けをしてくれました。運搬担当の堀之内くん、佐々木くん、小久保は、江戸くんとその持参食材を駅でピックアップして、清水公園駐車場に戻りました。
 雨が引き続き降っていましたが、屋根のあるBBQ場なので竈での炭への火付けも順調にでき、BBQの準備が滞りなく整いました。お仕事が終わってから参加する予定の雨澤さんと堀米さんもBBQ場に到着し、午後6時ごろからBBQをスタートしました。
 今回、江戸くんは、大洗からイカ、エビ、蛤、カキなどの新鮮な食材と氷満載の発泡スチロール2個を持ってきてくれただけでなく、地場仕込みの焼き加減で素材の味を美味しく引き出してくれました(写真下左)。
 梅雨明けしたはずなのに外は強い雨が時折降っていましたが、このBBQ場は屋根付きなので濡れる心配はありません。約3時間の海鮮プラスお肉と野菜の宴は、飛田くんが俳優の岩松了さんに似ているとの話で盛り上がりました。そして、午後9時までにはお片付けも完了し、全員で記念写真を撮りました(写真下右)。

 
大洗の海鮮調達と調理で大活躍の江戸くん          お片付け完了です。    
                              

【撮影】佐々木くん(39組)・【報告】小久保(35組)

●大塚~箱根山編(平成29年9月24日開催)

コース:大塚駅~大塚公園(桑名藩松平家抱屋敷跡)~教育の森公園(守山藩松平家上屋敷跡)~
     お茶の水女子大(磐城平藩安藤家下屋敷跡)~
     目白運動公園(安志藩小笠原家下屋敷跡)~
     東京カテドラル聖マリア大聖堂(宍戸藩松平家下屋敷跡)~
     肥後細川庭園(熊本藩細川家下屋敷跡)~甘泉園公園(清水徳川家下屋敷跡)~
     戸山公園(尾張藩徳川家下屋敷跡)~東新宿駅=副都心線=新宿三丁目駅~
     Craft Grill(Beams Japan B1F) 打ち上げ
参加者:雨澤さん、石井くん、松浦くん(以上31組)、島田くん(33組)、柴田さん、深津くん、
     汀くん、阿部くん、川島(旧姓唯根)さん(以上34組)、小久保(35組)、飛田くん、
     高沢くん(以上37組)、堀米(旧姓坂本)さん、酒井(旧姓武石)さん(以上38組)、
     堀之内くん、飯村くん、佐々木くん(以上39組) 合計17名
     ただし川島さんは最初の部分のみ参加、酒井さんは打ち上げを不参加でした。

概要: 今回は平成29年4月自主トレに続く江戸大名屋敷跡地散策の第2弾です。上記の「コース」のところにカッコ書きで大名屋敷名を記載しましたので、参考にしてください。
 大塚駅改札出口に午後1時に集合し、すぐに写真撮影(写真下左)をしました。第11回「復活・歩く会」の開催間近だったので多数の参加となりました。そう、ご覧のように写真では何名の参加者か、すぐに数えるのが難しいぐらいでしょう。総勢17名です。
 今回は、柴田さん(34組)が、ちょうど三宅島から東京区内への出張ということで参加してくれました。また、写真を見れば川島さんはウォーキングをするような服装ではないと一目でわかりますね。そうそう、川島さんはこの後ご予定があるということで数百メートル先の新大塚駅までの参加となりました。
 では水戸一高の校章をあしらった小旗を先頭に出発進行!
 大塚駅から春日通りを南に歩くと、大塚公園がありました。ここは桑名藩松平家抱屋敷跡です。抱屋敷とは、藩自身が土地を購入して建設した屋敷のことです。それに対し幕府から拝領した屋敷は「拝領屋敷」と呼ばれます。1928(昭和3)年に開園した由緒ある大塚公園には「露壇(ろだん)」が設けられていました。露壇とは所謂「テラス」のことですが、ここの露壇はイタリア・ルネサンス式庭園の様式の流れを汲むもので、この公園は歴史の古さを感じさせる中に、現代的なデザインを取り入れている点が特徴だそうです。
 さらに春日通りを南下し、大塚三丁目交差点から不忍通りを歩き、大塚四丁目交差点を右に入ると、元東京教育大学大塚キャンパスだった「教育の森公園」がありました。ここは守山藩松平家上屋敷跡でもあります。「教育の森公園」は1978 (昭和53)年に東京教育大学が筑波大に移行した跡地に1986(昭和61)年に開設された公園で、じゃぶじゃぶ池などの憩いの施設のほか、防災機能を持つとのことですが、あいにく来年3月まで改修工事中ということで入場することはできませんでした。
 再び春日通にもどると道路の反対側に「お茶の水女子大学」がありました。お茶の水女子大は磐城平藩安藤家下屋敷跡です。関東大震災後、お茶の水女子大学は御茶ノ水駅付近からこの地に移転しました。正門でOGの雨澤さん(31組)に交渉してもらいましたが、試験中なので遠慮してほしいということ、やんわりと断られました。
 次に、お茶の水女子大と跡見学園高校筑波付属中学校の間の道を登り、そのあと急な付属横坂を下ると大塚署前に出ました。その後、再び登り道となり、首都高速5号池袋線のガードを潜っても、さらに三丁目坂と呼ばれる登り坂が続きました。右手では広大な敷地が工事中で、門には「東京大学総合教育研究施設」と記されていました。新しい研究施設が建つのでしょう。この坂を登りきったところは目白台地と呼ばれており、傾斜のきつい坂が多く、良い運動になったことでしょう。
 その先の変則的な四つ角を左に曲がり、目白通りに出ると「目白台運動公園」がありました。ここは安志藩小笠原家下屋敷跡とのこと、現在はテニスコートやわんわん広場があるスポーツ施設になっていました。「目白台運動公園」の隣に「和敬塾」と書かれた由緒正しそうな雰囲気の門がありました。この施設は1955(昭和30)年に前川製作所の創業者である前川喜作氏によって創設された男子大学生・大学院生向けの学生寮ということです。勉学がはかどる環境ですね。
 さらに歩いていくと、東京カテドラル聖マリア大聖堂があり、入口は物々しい警備でした。どうやらイタリアから大司教が日本に来訪して、本日ここでミサを行うということでした。
 大聖堂の反対側の椿山荘側に渡り、講談社野間記念館の脇の道に入ると、細川家に伝承された文化財を保存する永青文庫があり、その先は急坂になっていました。この坂は胸突坂と呼ばれるということです。坂を下りきると神田川が流れていました。T字路の右手に氷川神社、さらに歩くと、肥後細川庭園(熊本藩細川家下屋敷跡)です。この庭園は2017 (平成29)年3月に「新江戸川公園」から名称が変更されました。江戸期の池泉回遊式庭園で、やり水形式(平安貴族の寝殿造りの細流)で台地の湧き水を池に取り入れている点が特長です。明治時代に細川家の本邸となり、その後、東京都が買収して公園となったという経緯です。
 私たちは肥後細川庭園の南門から入り、中池と大池の間の土橋を渡り、少し登ったところにある十三重塔で休憩しました。そして下のほうに見える大池を廻りこむように降りていくと、水を引く「やり水」がありました。最後に細川家の学問所として使用されていた松聲閣(しょうせいかく)の前から庭園全体を眺め、日本庭園の美しさを鑑賞しました。
 肥後細川庭園からは神田川に沿って歩きましたが、生憎と神田川沿いの歩道が工事中で大きく回り道をすることになりました。そして、太田道灌公の逸話にある「山吹の里」の地とされる面影橋に立ち寄り、次に都電荒川線を渡って甘泉園(かんせんえん)公園に到着しました。ここは清水徳川家下屋敷跡です。ここから湧く泉の水がお茶に適していたところから「甘泉園」と名付けられたと言われています。入り口はテニスコートや児童公園となっており騒がしいですが、ひとたび公園の中に入ると静謐な回遊式庭園になっており、疲れを癒すことができました。
 甘泉園公園を出て、その脇を通る環状四号線を歩き、西早稲田交差点を渡りました。そして東京国際大学早稲田サテライト跡地前を抜けて都道25号線に出ると、まもなく戸山公園に着きました。戸山公園は尾張藩徳川家下屋敷跡です。ここには尾張藩の2代藩主徳川光友公が東海道五十三次に似せて造った戸山荘庭園という広大な庭園があり、その中には玉円峰と呼ばれる築山があり、それが現在の箱根山ということです。箱根山は山手線内で一番高い標高44.6メートルです。箱根山山頂で記念写真(写真下右)を撮りました。
 箱根山を降り、新宿方面に歩いているとき、雨澤さんが足を痛めたということで、ゴールも近いことから無理をせず、近くの東新宿駅から副都心線を利用して新宿三丁目駅まで移動しました。新宿三丁目駅の出口で酒井さんは帰宅のため新宿駅へ、私たちは打ち上げのBeams Japan 地下1階の Craft Grillに向かいました。ここは堀米さんの御推薦です。ここの営業は日光金谷ホテルが行っており、地ビールと100年カレーが美味でした。今回は大人数で大いに盛り上がった打ち上げ(写真下)となりました。

 
大塚駅前                 箱根山山頂


打ち上げ(Craft Grill)
                              

【撮影】佐々木くん(39組)・【報告】小久保(35組)

●箱根旧東海道編(平成29年11月25日開催)

コース:小田原駅~小田原城入口~三の丸小学校~板橋見附~鈴廣蒲鉾本店~風祭駅~
    三枚橋~下宿=(箱根登山鉄道バス)=本陣跡~畑宿一里塚~橿木坂(かしのきさか)~
    猿滑坂~追込坂~甘茶茶屋(昼食)~お玉が池分岐~権現坂~元箱根~
    箱根宿杉並木~箱根関所跡~箱根駅伝ミュージアム~箱根駅伝芦ノ湖ゴール=
    (箱根登山鉄道バス)=温泉場入口~弥次喜多の湯~箱根湯本(打ち上げ)
参加者:島田くん(33組)、小久保(35組)、飛田くん、高沢くん(以上37組)、 飯村くん、
    大島ご夫妻(以上39組) 合計7名

概要: 今回の自主トレは峠が大好きな島田くん(33組)がリーダーを担当しました。そのため自主トレとしてはかなりハードな箱根旧東海道の登り道です。島田くんの当初計画では小田原駅で集合後、箱根登山鉄道(登山電車)箱根湯本駅で下車、バスで須雲川まで移動し、そこから箱根八里の坂、坂、坂を懸命に登って、最後は芦ノ湖畔の箱根駅伝往路ゴールまで8キロ強を踏破する予定でした。
 しかし、小久保が池袋駅から湘南新宿ライン小田原駅行きに乗車した直後、飯村くん(39組)から「現在新宿。倒木の為、小田原、箱根湯本間不通。小田原からは振替バス運行。かなり混雑する予想。」とのメールをもらいました。少し経って島田隊長から「小田原駅の登山電車のホームに集合」という指示が届きました。飯村くんのメールでは小田原駅から振替バスとのことなので、“ホーム”じゃなくて“改札”ではと訝かしみつつ、次々届くメールを読んでいると、「登山電車ホームで未練タラタラせずに改札集合にします。隊長、了解済みです。」という飛田くん(37組)からの最終連絡が届き、ようやく改札口に変更になりました。
 たぶん、計画を立てた島田くんは当初の計画通りに進めたかったのですよね!
 飯村くんと飛田くんはロマンスカー、大島ご夫妻は新幹線で、小田原にかなり早めについていたようでした。一方、普通電車の高沢くんが9時20分ごろ、小久保が最後に小田原駅に到着して、9時30分に全員集合となりました。
 小田原駅ロータリーには振替バスがたくさん集まって乗客を乗せようとしていましたが、島田隊長が「振替バスは使わずに箱根湯本まで歩く」と強気に宣言して、小田原城方面に歩きだし、全員がついて行きました。小田原駅から徒歩10分の小田原城址公園では、小田原城の復興された天守が見えるのではと期待して公園の入口からちょっとだけ入りましたが、残念ながら天守は見えませんでした。しかし隣の三の丸小学校の校庭からはわずかに天守を望むことができました。
 小田原城趾公園を後にして少し歩くと国道1号線に出ました。ここから箱根湯本までは当初計画にはない特別歩行です。東海道線と箱根登山鉄道のガードを潜ると、江戸時代の防衛施設跡の「板橋見附」がありました。島田隊長はここまで軽やかに歩いてきましたが、「板橋見附」を過ぎて、突然、スマホを取り出して、調べだしました。とりあえず、小休止。どうやら旧東海道への入口が見つからないようです。
 正しくは新幹線のガードを潜る直前にあった「光圓寺」というところで右に曲がらなければならなかったということで、少し戻ることになりました。予定外のコースでは仕方がないですね。ところで、この「板橋」という地名はこの付近を流れる小田原用水に板の橋がかかっていたことに由来するとのことです。水に緑が映えるこの板橋地区には山縣有朋公爵の古稀庵や大倉喜八郎男爵の山月など、政治家をはじめ明治、大正の著名人の邸園が造られたそうです。道なりに古い家並を歩いて行くと、「上板橋」というところで再び国道1号線に合流しました。ここには小田原用水の早川からの取水口がありました。
 しばらく早川と箱根登山鉄道に沿って国道1号線を登っていくと、「西湘バイパス」と「小田原厚木道路」が合流するインターチェンジの橋脚が見えました。この辺りに日蓮上人の霊跡があったことを示す「象ヶ鼻」の案内板がありました。
 そして、まもなく「鈴廣」。「鈴廣」は小田原の蒲鉾屋さんですが、箱根駅伝の襷リレーが行われる中継所と言ったほうが分かりやすいでしょう。この日は倒木による運休があり最初からバタバタしていたので、ここで一口サイズの蒲鉾を購入して、店外に設置されたテーブルで食べて、ようやくひと心地がつきました。
 「鈴廣」からは国道1号線から離れて風祭駅のほうに歩きました。島田隊長を先頭に踏切に近づいたとき、倒木で止まっているはずの箱根登山鉄道の踏切が突然鳴り出しました。うむ、島田くん念力で復旧か(?)と思いきや、その場にいた駅員さんが「これは違います。お昼過ぎまで運休です。」と残念な一言。敢え無くぬかよろこびに終わり、再び歩き出しました。
 さらに単調な登り道を歩くことしばし、ようやく箱根湯本駅が見えてきました。島田くんはバス時刻表をスマホで調べ、箱根湯本駅手前の三枚橋を渡ったところにある「下宿」というバス停から畑宿までバスで移動することになりました。畑宿は戦国時代から箱根越えの中間地点として旅人たちが行き来していた歴史ある宿場町で、この近辺には幕府からの命を受けて村人がつくりあげた石畳が今も残っています。この日は小田原駅から歩いたため、当初予定していた須雲川自然探勝歩道は時間の関係でパスすることになり、畑宿の本陣跡や紅葉が綺麗な一里塚写真下①)を見学してから旧東海道の石畳を歩くことになりました。
 そう、ここからが本日の自主トレの本番!
 九十九折りの道をひたすら登りました。この辺りになると体力差が出てくるようで、いつのまにか大島夫人が先頭を歩くようになりました。大島夫人は翌日の長距離走大会に出るための足慣らしとして参加したということで、私たちと一緒では物足りなかったかもしれません。
 自動車でも難渋する曲がりくねった道を直登する橿木坂(かしのきさか)をなんとか登りきると、見晴し茶屋にでました。しかし、さらに坂道は続き、猿滑坂まで急傾斜の連続。そして少し傾斜の緩い追込坂も登りきり、昼食予定の甘茶茶屋写真下②)に到着しました。甘茶茶屋の到着は12時30分頃、島田くんの想定よりも早かったということで、皆さんが頑張った成果でしょう。それとも健脚な大島夫人に引っ張ってもらったお陰かもしれません。ここでは甘茶茶屋の名物、江戸時代より変わらない製法で地場産のうるち米と米麹のみで仕込んだ無添加の甘酒も頂きました。
 甘茶茶屋を出るとしばらくして石畳となりました。しかし、敷石が不揃いのためデコボコで、かなり歩きにくい状態でした。しかも芦ノ湖への道は下り坂なので、慎重に歩く必要がありました。転んだら大怪我をすることでしょう。急傾斜道を興福院まで下り、さらに歩くと、元箱根の土産屋が集まった通りにでました。その道を芦ノ湖のほうへ歩くと、湖畔から真っ白な富士山が見えたので、記念写真(写真下③)を撮りました。
 さらに湖畔を歩き、次は元箱根の旧東海道杉並木です。ここは高低差がなく、とても楽に歩けました。そして箱根の関所です。現代は「入り鉄砲に出女」の取締りは行われていないので、大島夫人も関所を無事に通過することができました。江戸時代はたいそう不便だったことでしょう。さらに芦ノ湖畔を歩き、箱根ホテルの少し先の「箱根駅伝ミュージアム」に立ち寄りました。ここは平成20年11月に訪れたことがありました。そして最後は箱根駅伝の往路ゴールで記念写真(写真下④)を撮りました。
 到着時刻は午後2時30分、近くの箱根ホテル前からバスに乗車して、温泉場入口で下車しました。近くの日帰り温泉「弥次喜多の湯」に入り、疲れを癒しました。

 
①畑宿一里塚                ②甘茶茶屋

 
③元箱根(芦ノ湖)            ④箱根駅伝芦ノ湖往路ゴール
                              

【撮影・報告】小久保(35組)

●隅田川七福神巡り&グルメツアー(平成29年12月9日開催)

コース:北千住駅(集合)~昼食~京成関屋駅~1.7mガード下(金八)~柳原千草園~
    荒川土手(金八)~区立桜中学校(金八:現・東京未来大学)~堀切駅(金八)~
    多門寺(隅七:毘沙門天)~白髭神社(隅七:寿老人)~向島百花園(隅七:福禄寿)~
    長命寺(弁財天)~長命寺桜もち~言問団子~弘福寺(隅七:布袋尊)~
    三囲神社(隅七:恵比寿・大国神)~隅田公園(旧水戸藩下屋敷石碑)~
    浅草寺(自由散策)~忘年会(10km)
    (金八:3年B組金八先生ロケ地、隅七:隅田川七福神)
グルメ:ライカノ(昼食、北千住:「孤独のグルメ」にも登場したタイ料理店)、
    長命寺桜もち(おやつ①、向島:享保2年創業の老舗)、
    言問団子(おやつ②、向島:江戸末期創業の老舗)、
    染太郎(忘年会、田原町:昭和12年創業の"風流お好み焼き"、数多くの文豪や芸人も通っ
    た老舗)
参加者:雨澤さん(LP)、石井くん、松浦くん(P)(以上31組)、島田くん(WP)、
    堂(旧姓:飛田)さん(以上33組)、川島(旧姓:唯根)さん、汀くん(以上34組)、
    高沢くん、飛田くん(以上37組)、江戸くん、酒井(旧姓:武石)さん(LW)
     (以上38組)、佐々木くん(P)、堀之内くん、飯村(以上39組)
    (昼食:L、歩行:W、忘年会:P、全行程参加者:記載なし)

概要:「隅田川七福神巡り」に「3年B組金八先生」ロケ地巡り、「旧水戸藩下屋敷跡」探索を加え、さらに4か所の有名店を巡るグルメツアー。天候にも恵まれ、半日ながらかなり密度の濃い内容で、締めの忘年会も大いに盛り上がった自主トレでした。なお、消費カロリーより摂取カロリーが大幅に上回った参加者がほとんどでした---?

 
柳原千草園               向島百花園

【撮影】島田くん(33組)、飛田くん(37組) 【報告】飯村くん(39組)