第12回「復活・歩く会」合同自主トレ総集編
【イベント報告】掲載:平成31年1月1日
●鴻巣編(平成30年3月11日開催)
コース:鴻巣駅~「エルミこうのす」ショピングモール~御成町東照宮~鴻巣本陣跡~ひなの里~
久良一(昼食)~鴻神社~赤見台近隣公園~石田堤跡~さきたま古墳公園~忍城~
行田市駅=熊谷駅(打ち上げ) 約20キロ
参加者:島田くん(33組)、小久保(35組)、飛田くん(37組)、
飯村くん、堀之内くん(以上39組) 合計5名
概要: 鴻巣は江戸時代に中山道の主要宿場町として発展しました。また鴻巣宿に隣接する上谷新田(現在の鴻巣市人形)では農閑期を利用した人形作りが盛んに行われ、「鴻巣雛」として江戸へ出荷されていました。この歴史題材を踏まえた町おこしのひとつとして、鴻巣市観光協会が2005(平成17)年に日本一高い「ピラミッドひな壇」を飾るようになり、2012(平成24)年にはギネス記録を打ち立てるまでになりました。
今回の最初の目的地はショピングモール「エルミこうのす」に飾られた、この「ピラミッドひな壇」です。鴻巣駅直結の入口から入り2階通路を歩くと、吹き抜けがあり、そこに沢山の内裏雛や三人官女が飾られていました。その雛壇の前ではミニライブが行われ、軽やかな音楽が流れていました。私たちはここでは場違いな男だけの集団なので、邪魔にならないようにそっと記念撮影をしました(写真下①)。
次も鴻巣市にある日本一です。こちらは「日本一小さい東照宮」(写真下②)です。ここは1593(文禄2)年に徳川家康によって建てられた「鴻巣御殿」が存在していたところだそうです。「鴻巣御殿」は、秀忠、家光と三代にわたって鷹狩りの際の休泊所として利用されたのち、1657(明暦3)年の「明暦の大火」復興のため解体され、江戸城に運ばれてしまい、その後は廃墟となったものの、1691(元禄4)年に跡地に「東照宮」をお祀りしました。しかし、この東照宮は明治時代に近くの「鴻神社」に合祀され、その後は住宅地となり、その存在も忘れ去られたようです。ようやく1996(平成8)年に試掘調査が行われ、「鴻巣御殿」の場所が特定でき、現在は日本一小さな「東照宮」をお祀りしているということでした。
次は「鴻巣本陣跡」に行きました。しかし歩道に碑が建っているだけで何もありませんでした。次は江戸時代に人形作りが行われていた跡地に建つ鴻巣市産業観光館「ひなの里」に行き、鴻巣の歴史を学習しましょう。「鴻巣本陣跡碑」から中山道を南東(鴻巣宿から桶川宿の方向)に歩くと本町(南)交差点に「これよりこうのす宿」という碑がありました。ここが鴻巣宿と上谷新田との境界だったようです。さらに200メートルぐらい歩くと「ひなの里」がありました。ちょうど雅楽の演奏が始まるところで、中庭に大勢の皆さんが集まっていました。最初の曲はみんなが知っている「君が代」でした。次は結婚式などで奏でられる「越天楽(えてんらく)」をそれぞれ異なる3通りの「調」で演奏し、それらが平調(ひょうぢょう)、黄鐘調(おうしきちょう)、盤渉調(ばんしきちょう)だという説明を丁寧にしてくれましたが、結局のところ、違いはよく分かりませんでした。
私たちが雅楽の演奏を聴いている間に島田くん(33組)から「お昼は近くの『久良一』といううどん屋さんで『川幅うどん』を食べよう」と提案がありました。以前、島田くんが中山道の街道歩きをしていた時に入ったことがあるということでした。「川幅うどん」とは鴻巣市と吉見町の間を流れる荒川の川幅が日本一の2,537メートルだということに因んだ地元グルメで、2009(平成21)年8月に幅約8cmの幅広うどんが誕生し、2015(平成27)年には「第12回埼玉B級ご当地グルメ王決定戦」で優勝したということです。
「久良一」の開店時刻は11時30分ということなので、それに合わせてお店に向かうことになりました。「ひなの里」からは300メートル弱なので、すぐに到着しました。しかし、到着した時には既に長い順番待ちになっていました。ここは、もしや有名店(?)。後日談になりますが、堀之内くん(39組)から「川幅うどんを食べた久良一が『あさイチ』(NHK:2018年4月2日放送)で取り上げられた」とメールがありましたので、やはり超がつく有名店だったのでしょう。
しかしお店の入店案内の仕方が悪く、島田くんが何度も「5人だけど2組に分かれてもよいから」と念を押したにもかかわらず、6名が座れる大きなテーブルが空くまで待たされ、結局のところ1時間近く待つことになりました。飛田くんが自主トレ後に出張先に出向く予定だったので、時間が気になりましたが、何とかかんとか、午後1時前には昼食を済ませることができました。
午後の最初の目的地は鴻巣の地名と関連が深い「鴻神社」です。「久良一」から直線で1.5キロ北西にあたります。もともとは「鴻三社」と呼ばれ、「氷川社」「熊野社」「雷電社」が明治時代に合祀された神社ということです。この神社には「こうのとり伝説」が伝わり、子授け・安産祈願の方々を見守っています。私たちはこちらも場違いかも…
「鴻神社」からは旧中山道にあたる県道164号、そして、国道17号とほぼ真っすぐな道を歩き、北鴻巣駅近くの赤見台近隣公園に到着しました。ここで飛田くんはお仕事のため、途中下車です。
赤見台近隣公園からは「武蔵水路」に沿って歩きます。「武蔵水路」は1967(昭和42)年に完成した、利根川の水を荒川に流す水路です。江戸以前の荒川は現在の鴻巣市の北側を流れ、当時の利根川(古利根川)に合流して江戸湾に流れていました。1629(寛永6)年から始まった「利根川の東遷、荒川の西遷」河川改修事業により、上流の久下村地先(現在の熊谷市)で荒川の流路が変えられ、鴻巣市の南側を流れるようになりました。その結果、江戸への洪水を防止できるようになりました。しかし、昭和になると東京の都市化が進み「東京砂漠」と呼ばれるような渇水状態となり、今度は利根川の水を荒川に導水することで「都市用水の導水」「浄化用水の導水」「周辺地域の内水排除」の機能を持つ「武蔵水路」が造られたということです。
「武蔵水路」は鉄筋コンクリートフレーム造りで最大導水量が毎秒50m3ということですが、近づいても水音はほとんどなく、怖いくらいのスピードで水が流れていました。「武蔵水路」に沿って4.5キロにわたる「さきたま緑道」が設けられており、「さきたま古墳公園」まで歩くことができるようになっていました。「さきたま緑道」の中には1989(平成元)年に開催された「第4回国民文化祭さいたま'89」にともない制作された彫刻が展示されていました。
赤見台近隣公園から20分ぐらい歩くと、上越新幹線高架橋近くに「元荒川」が流れていました。「元荒川」は江戸時代に本流から切り離された荒川の一部で、これから向かう行田市から流れて来る「忍川」との合流点です。
上越新幹線の高架を潜ると線路沿いに「石田堤史跡公園」があるはずですが、なかなか見つかりません。トイレ休憩にしたところ、そこからたまたま案内板が見え、それに従ってなんとか辿り着くことができました。「石田堤」とは映画「のぼうの城」等で有名になった堤で、豊臣秀吉による関東平定の一環として、石田三成が小田原(北条氏)方の成田氏長居城である忍城(おしじょう)を攻めた際、水攻めのために築いた堤(全長28キロ)のことです。結局、この史跡近くで堤が決壊して、石田三成軍に損害が出て、忍城は北条氏が籠る小田原城が落城するまで持ちこたえました(この逸話から、忍城は「浮き城」と呼ばれました)。後年、石田堤が切れたことに因んで、その場所に架かる橋は「堀切橋」(土木学会選奨土木遺産認定)と名付けられたということでした。
「石田堤史跡公園」から「さきたま緑道」に戻り、さらに30分ぐらい歩いて、「さきたま古墳公園」に到着しました。「さきたま古墳公園」は埼玉古墳群を中心に整備された公園で37.4haの広さがあり、園内の丸墓山古墳は日本最大の円墳と言われ、稲荷山古墳から鉄剣が出土したことでも知られています。石田三成が忍城水攻めの時に本陣を置いた丸墓山古墳の登り口で記念写真(写真下③)を撮りました。古墳の頂上部は眺望がよく、直線で約2.4キロ先の忍城も見えるところでした。しかし島田くんには見えなかったということですので、あえて「はっきり」とは記載しませんが、私には鴟尾(しび)も見ることができました。
昼食の待ち時間のため行程はかなり遅れており、既に時刻は4時近くとなったため、バスの時刻を探しましたが、既にないことが分かり、やむなく忍城まで歩くことになりました。県道77号線を西に歩き、元荒川と合流する忍川を渡ると、まもなく、「佐間」というところに着きました。時間の都合で立ち寄ることはできませんでしたが、ここは忍城主成田家の家老、正木利英公が守ったところで、忍城開城後にこの地に「高源寺」を開基し、戦死者の霊を弔ったということでした。また近くには国登録有形文化財で、かつて「足袋御殿」と呼ばれていた「旧荒井八郎商店」の洋館がありました。現在は和牛懐石「彩々亭」の店舗となっています。行田は足袋産業で発展した街で、最近ドラマ化もされた池井戸潤作の小説「陸王」の着想を得たところと云うことなので、再び、訪れてみたいと思います。
「足袋御殿」から300メートルぐらいの「水城(すいじょう)公園」に入り、池の周囲を廻ると、行田市立中央小学校の先に「忍城」への入口が見えました。「浮き城の径」の一部を歩くと、阿部正能公(1627~85年)の代に建てられて1873(明治6)年に廃藩置県による廃城に伴って取り壊された「三重櫓」跡や、1823(文政6)年に忍藩の藩主となった松平家の忠堯・忠国候隠居所跡の碑が建っていました。忍城に到着した時には午後5時近くとなっており、夕日が陰る忍城跡で御三階櫓(1988(昭和63)年再建、行田市郷土博物館の一部)を背景に記念写真(写真下④)を撮りました。
行田市駅から交通の便が良い熊谷駅まで秩父鉄道で移動し、熊谷駅前の「さつき屋」で打ち上げを行いました。今回は久しぶりに20キロ超えの自主トレらしい長いコースを歩きました。また、武蔵野国の江戸、および、埼玉県の明治の歴史にも触れることができ、その中でいくつかの日本一に出会えました。
① 日本一高いピラミッド雛壇 ② 日本一小さい東照宮
③ さきたま古墳公園丸墓山古墳 ④ 忍城
【撮影・報告】小久保(35組)
●国分寺編(平成30年4月1日開催)
コース:日立製作所中央研究所庭園~恋ヶ窪・姿見の池~東山道武蔵道跡~
都立武蔵国分寺公園~真姿の池湧水群~武蔵国分寺~武蔵国分尼寺~
府中刑務所~大國魂神社~ 府中駅(打ち上げ) 約14キロ
参加者:阿部くん、川島(旧姓唯根)さん、古橋くん(以上34組)、小久保(35組)、
高沢くん、飛田くん(37組)、酒井(旧姓武石)さん(38組)、
佐々木くん、堀之内くん(以上39組) 合計9名
概要: 毎年春と秋の2回(4月第1日曜日、11月第3日曜日)、私が勤務する株式会社日立製作所中央研究所の庭園開放が行われます。今回は春の庭園開放日の4月1日に合わせて、桜咲く庭園の散策から行程を始め、東山道武蔵路遺跡や武蔵国分寺・武蔵国分尼寺跡を見学しました。以下の写真に写っていますが、マスクをして花粉症の備え万全の34組・古橋くんが久々に参加してくれました。
駅北口に新しくツインタワービルが完成し、昔の雰囲気から大きく変わった国分寺駅のコンコースに定刻の11時に全員集合。まずは私の通勤ルートに沿って中央研究所まで歩きました。途中、蛙飛びでも有名なボクシング元世界チャンピオン・輪島功一さんが経営する団子屋さんの前を通り、約10分で中央研究所正門に到着しました。
正門から入り、鬱蒼と木が茂る通路を歩きました。研究所の建屋に通じる橋のところで入場者数を計数していました。この日、最終的には7,000人を超える人が入場されたということです。最初の建屋前の噴水を左に曲がると、テントがたくさん見えました。この日の庭園開放のため国分寺市の商店や付近の商店が出店していました。テントが張られているところは芝生上で、休憩場所となっており、まずは桜の花をバックに記念写真(写真右)を撮りました。
次に芝生の脇の下り道を進むと「大池(おおいけ)」と呼んでいる池が見えました。この斜面が「国分寺崖線」でこの崖に沿って湧水が湧いています。この湧水群の水は「大池」に注ぎ込み、そして三鷹・調布・世田谷を流れる野川の源流となっています。満開は少し過ぎていましたが大池の周りには桜が咲き、池には「ブラタモリ」に出演した白鳥(2012(平成24)年1月19日NHK放送)が悠然と水面を泳いでいました。
人気の湧水箇所の見学は順番待ちとなっており、並んでから見学まで30分ぐらいかかりました。湧水からの水は単なる水溜まり(?)のように見えますが、写真右をよくよく注意して見てください。湧きだした水が涼やかに流れているでしょ!
佐々木くんたちは水を手で汲んでいましたが、それほど冷たいわけではなかったそうです。ちなみに2000年発行の「地下水学会誌」の「東京都の湧水の現況」によると、この地域全体ではなんと毎分2,050リットルが湧き出ているということです。
国分寺崖線の湧水箇所を見学した後、桜吹雪の中の大池をひと巡りして、先ほどのテント群に12時過ぎに戻りました。今回のコースでは西国分寺駅付近の東山道武蔵路遺跡を見学してから遅めの昼食をとる予定なので、ここでは小休憩、めいめいで軽食を食べました。
休憩後、中央研究所庭園を後にし、今度は研究所敷地のフェンスに沿って歩くと、縄文時代の住居跡「柄鏡形敷石住居跡」がありました。円形の住居部に四角の張り出しがある形から、柄の付いた鏡(柄鏡)と名付けられたそうです。さらに歩くと下り坂になり、西武国分寺線と中央線が並走する線路脇に出て、先ほどの大池から流れ出た野川の上を通りました。さらに600メートルぐらい西に歩くと「姿見の池」がありました(写真右)。この池は鎌倉時代に遊女達が朝な夕なに自らの姿を映して見ていたという伝承から名付けられたということです。また、この地は「恋ヶ窪」と呼ばれており、地名の由来の一つでは、傾城(けいせい)・夙妻太夫(あさづまたゆう)が武将・畠山重忠を慕って身を投げた池とも云われています。昭和40年代に一旦埋め立てられてしまいましたが、
1999(平成11)年に復元・整備され、再び湧水群と武蔵野の里山風景を楽しむことができるようになりました。
「恋ヶ窪」の“窪”とは「低く窪んだ」地形を表します。この窪地から坂を登って旧国鉄の教育機関「中央鉄道学園」跡に向かいました。写真右はその「中央鉄道学園」跡で発掘された東山道武蔵路跡です。現在、道路遺構は地中に埋められ、地上はアスファルトで覆われています。遺構の幅は12メートルということなので道幅いっぱいに広がって撮ってみました。この時は気づきませんでしたが、あとで調べてみると地中の遺構の場所が分かるように黄色いペイントで配色されているようです。
東山道は奈良時代に近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る官道として制定されました。武蔵路は上野国から武蔵国への枝道として整備されましたが、771(宝亀2)年に武蔵国が東海道に組み入れられたため、僅かな期間だけの利用で廃止されました。
当初、昼食は東山道武蔵路遺跡近くの蕎麦屋さんを予定していましたが、当日、お店に行ってみると生憎と満席のため、近くの「カフェ・穂高」でランチメニューをいただきました。ここのランチメニューのドリンクにはビールも選べ、かえってこちらの方が参加メンバーにとってはよかったかもしれません。
午後は「中央鉄道学園」跡を中心に整備された都立武蔵国分寺公園(10万㎡)を散策しました。写真右のように公園内の「こもれび広場」で桜を背景に記念写真を撮りました。ここで練習しているスポ少の子供たちが走る方向に合わせて歩いていったのですが、国分寺跡に出る道が見つからず広場を一周以上も歩くことになりました。一度公園を出ると、ようやく崖線の下に降りる道が見つかり、下り坂に続く急な階段を降りると「真姿の池」に着きました。「真姿の池」は2008(平成20)年6月14日の自主トレで訪れたことがありました。言い伝えによると、848(嘉祥元)年、絶世の美女といわれた玉造小町が病気に苦しみ、全国行脚で病の平癒を願ったところ、この地で「池で身を清めよ」との霊示を受けて快癒したことから「真姿の池」と名付けられたということです。現在でも綺麗な水が湧き出しており、東京都の名湧水57選に選ばれています。「真姿の池」からは尾張徳川家の御鷹場だったことに因み「お鷹の道」と名付けられた遊歩道が整備されており、現在の武蔵国分寺楼門のほうに続いていました(写真右)。
奈良時代の武蔵国分寺は、現在の武蔵国分寺よりも南側に位置し、講堂、金堂、七重塔の壮大な伽藍を構えていたと考えられています。東山道武蔵路が伽藍の西側を通り、武蔵路の向こう側に武蔵国分尼寺が建立されていました。右の写真は復元された武蔵国分尼寺の金堂基壇で撮りました。私にとってこの付近は1980年代に寮から自転車で通勤していた懐かしい道でした。
武蔵国分尼寺から府中街道を歩き、いまでは時効となってしまった「三億円強奪事件」発生場所の府中刑務所裏を歩きました。長い歳月が経ち、刑務所の塀は新しくなっており、事件当時の写真とは違う印象でした。現場近くと推定される場所でみんながスマホで関連情報を調べてくれましたが、正確な現場は特定できませんでした。
明星学苑前交差点を右に曲がり国分寺街道を府中方面に向かいました。東京農工大付近で府中刑務所の正門が見えました。それにしてもこの辺は学校関連施設が多いですね。さらに南に歩き、東京都立農業高等学校を過ぎ、ケヤキ並木に入ると、間もなく、府中駅、さらに大國魂神社に到着しました。大國魂神社は武蔵国の総社で、神輿を消燈して闇夜に御旅所へ神幸する5月の例大祭、俗に言う「くらやみ祭」が有名です。
参拝が済んだのは午後4時。酒井さんと古橋くんはここで帰宅され、まだくらやみではありませんでしたが7名で大國魂神社近くの「ワインバル・ビバー」で打ち上げを行いました。今回は、桜吹雪の中、縄文・奈良時代から昭和の歴史にまで触れることができた楽しい一日でした。
【撮影】佐々木くん(39組)【報告】 小久保(35組)
●都電荒川線の薔薇編(平成30年5月19日開催)
コース: 南千住駅~都電荒川線三ノ輪橋停留場~旧三河島汚水処分場喞筒場~
荒川自然公園~ゆいの森あらかわ~尾久八幡神社~あらかわ遊園~
王子駅前停留場=(都電荒川線)=大塚駅前停留場~東池袋中央公園
(サンシャインシティ)~池袋駅(打ち上げ) (10キロ)
参加者:石井くん、雨澤さん(以上31組)、島田くん、堂(旧姓飛田)さん(33組)、
阿部くん、汀くん(以上34組)、小久保(35組)、飛田くん(37組)、
飯村くん、堀之内くん(以上39組) 合計10名
ただし、雨澤さんは打ち上げから参加。
概要: 前日に島田くん(33組)から「明日は(曇り時々雨から)晴れの予報に変わったので参加します」とメールをもらいました。幸いにも島田くんが見た予報が当たり、ウォーキング日和となり、都電荒川線沿線の薔薇を訪ねることができました。
右の写真は集合場所・南千住駅西口ロータリーに建つ松尾芭蕉像の前で撮影しました。この日のテーマ「薔薇を訪ねて」に発つ前に、まず、南千住駅前にある小塚原回向院を訪ねました。「西郷どん」で俳優・風間俊介さんが演じた橋本左内先生(安政の大獄で刑死)の墓や水戸藩ゆかりの墓があります。ここにはしばらく来ていなかったのですが、プロレスラーのカール・ゴッチ氏の墓も2017(平成29)年7月にできたようです。
小塚原回向院から南千住仲通り商店会を通って三ノ輪橋停留所に到着しました。右の写真は、この日開催の「第10回あらかわバラの市」のため三ノ輪橋停留所構内に設置されていたフォトスポットで撮りました。よく背景をみると、ここはツーショットのための場所のようです。まるでお上りさんのように大人数で占有して、都電を利用される皆さんにはご迷惑をおかけしました。
ここからは都電荒川線に沿って「荒川バラの会」の皆さんが丹精込めて育てている薔薇の花を見て歩きましょう。ただし荒川線は大半が専用軌道のため、線路に沿って歩くのは簡単ではありません。ここで飛田くん(37組)が愛用のスマホの地図機能を利用して、「右! 左!」と的確に誘導してくれました。
荒川区役所を過ぎたところで、明治時代のレンガ造りの門が見えました。国指定重要文化財「旧三河島汚水処分場喞筒場」です。ここで「『喞筒場』とは何と読むのか?」が話題になりましたが、誰も読めませんでした。正解は案内板に記載されていて「ポンプじょう」と読むようです。水に関係する仕事をしている阿部くん(34組)が、それなら「機場」のことだと、素人にはかなり難解な解説をしてくれました。
残念ながら喞筒場内の見学には事前予約が必要なので、見学は次回のお楽しみとして、荒川線に沿って薔薇鑑賞を続けました。喞筒場傍の線路に沿った先に急な坂が見えたので、面白そうなので歩いてみることにしました。この坂は東京都下水道局三河島水再生センター上に人工地盤を造って設置された「荒川自然公園」(約6万㎡)への入口でした。公園内には池や森が造られ、池には白鳥が泳いでいました。とても水再生センター施設の上に造られたものとは思えません。右の写真は池の中にある東屋から撮りました。
次は荒川自然公園から都電の線路を反対側に渡って、「ゆいの森あらかわ」で開催されている「第10回あらかわバラの市」イベント会場に行きました。会場ではバラに関係したグッズがたくさん展示販売されていました。そして昔懐かしい紙芝居も行われていました。何を売っているかひやかしながら歩いていくと、「バラサイダー」なるものが売られていました。残り僅かだったので私は買えませんでしたが、幸いにも購入できた堂さん(33組)から味見をさせてもらいました。「バラサイダー」を販売している方の話では、静岡産のバラからとったエキスで作っているということでした。歩いてのどが渇いていたので、結局、私がほとんど飲んでしまったようです。堂さん、ご馳走さまでした。
都電荒川線沿線にはそこかしこに花壇があり、下の写真のように、見事な薔薇の花が咲き誇っていました。
町屋駅前停留所を過ぎて、舎人ライナーと接続する熊野前停留所に来ました。「熊野前」という名称から熊野神社があると思われたので近くを探しましたが、1878(明治11)年に尾久八幡神社に合祀され、現在は案内板のみということです。合祀された尾久八幡神社は、次の宮ノ前停留所にありました。鶴岡八幡宮から分祀され、地域で深く信仰されてきたようです。神社に残る棟札によると1385(至徳2)年に社殿が建立されたとのことです。
次は「あらかわ遊園」に行こうということになり、また線路に沿って歩きました。荒川遊園地前停留場からあらかわ遊園までの歩道にもたくさんの薔薇の花が咲いていました。また、あらかわ遊園前には都電の旧車両が展示されていました。
さらに次は隅田川沿いを歩こうということになり、隅田川に出るルートで「あらかわ遊園」を右回りするか、左回りするかで、非常に些細なことなのですが意見が分かれました。どちらでもよかったので右回りを選びました。後で地図を調べてみると左回りだとかなり遠回りになったようです。右回りで船方神社の脇を通って、堤防から隅田川の遊歩道に降りました。しかし、600メートルぐらい歩いた先は生憎と工事中でした。仕方がないので、堤防に上がり、王子駅を目指して歩きました。幾棟ものマンション群の脇を抜けて通りに出ると「日刊スポーツ」「日本製紙」「読売新聞」の大きな共同工場がありました。交通情報でおなじみの「飛鳥山トンネル」の換気所の傍を通って、王子駅前停留所に到着。ここからは都電に乗って、中から沿線風景を楽しむことにしました。
右の写真で堀之内くん(39組)の持っている吊革に注目してください。なんと、ハート形です。この車両は8901号車だそうで、この車両しかハート形のつり革は設置されていないということです。なんという幸運!
車両の前から後ろに向かう通路のところにあるので、気が付かない場合もある(実際に小久保は素通りでした)ので、幸運をつかみたい方は吊革に注意して車内を歩きましょう。乗車した8901号車両は飛鳥山公園の「アスカルゴ」(日本一短いモノレール)の傍から明治通りの急坂をズンズンと登って行きました。
「アスカルゴ」には平成27年4月の自主トレで乗車したことがあります。ここから先は、王子駅前から約3キロ先の大塚駅前停留所で下車し、現在の池袋サンシャインシティ、巣鴨プリズン跡に向かう予定です。しかし下車後、歩き出す前に、疲れた表情の堂さんのためにちょっと寄り道。39組・飯村くんの案内で駅前の「千成もなか本舗」にて、しばし甘味で休憩をとりました。
ここから巣鴨プリズン跡までは約1キロメートル。高くそびえる「サンシャイン60」を目印に15分ぐらいで巣鴨プリズン跡である「東池袋中央公園」に到着しました。しかし、公園はコスプレの大群で占領されていました。どうも「コスプレ」イベントが開催されているようでした。私たちのほうがちょっと場違いな感じなので、「永久平和を願って」という石碑で合掌し、打ち上げ会場に移動することにしました。
雨澤さん(31組)が東京知道会会報委員会の記事インタビュー(昭和42年卒・益子邦洋さん)が終わった後に加わり、最終的には写真右のように10名の参加となりました。7月19日発行の東京知道会会報には、この益子邦洋さん(狙撃された國松孝次・元警察庁長官を緊急手術で救い、日本のドクターヘリ発足に貢献され、ドラマ「コード・ブルー」の医療監修も担当)と2月の「同窓の集い」で講演された長谷川聡さん(平成元年卒)のインタビュー記事が掲載されます。また、同会報の「海外で活躍する同窓生」には33組・鈴木美奈子(Mina
Johnson)さんが登場し、「活動報告」では小久保が案内した「春の花見」名所解説の記事もあり、いろいろな話題が掲載されますのでご覧ください。
今回は都電荒川線沿線の薔薇鑑賞と銘打って南千住駅を出発し、三ノ輪橋停留所から綺麗に咲いた薔薇を見ながら都心をウォーキングしました。最終目的地の池袋ではコスプレ群団に驚きましたが、ウォーキング日和のなか約10キロをゆっくりと楽しく歩くことができました。
【撮影・報告】 小久保(35組)
●ココ・ファーム・ワイナリー編(平成30年6月10日開催)
コース:足利市駅~ココ・ファーム・ワイナリー~赤松台北=(バス)=足利学校東~
太平記館~鑁阿寺~銀釜(打ち上げ) (10キロ)
参加者:川島(旧姓:唯根)さん(34組)、小久保(35組)、飛田くん、高沢くん(以上37組)、
飯村くん、堀之内くん、佐々木くんご夫妻(以上39組) 合計8名
「ココ・ファーム・ワイナリー」をご存知でしょうか?
「ココ・ファーム・ワイナリー」とは、障害者支援施設「こころみ学園」のワイン醸造場のこと。足利市の特殊学級(現在の呼称は“特別支援学級”)の教員だった川田昇先生が、私たちが生まれた60年前の1958(昭和33)年から足利市田島の急斜面を開墾して作った葡萄畑(写真右)を起点とし、それ以降、先生や生徒たち自らの手でこつこつと築きあげ、1969(昭和44)年に「こころみ学園」を竣工しました。川田昇先生の「知的障害を持った人たちと葡萄畑でワインをつくることでいきいきと力を発揮できるようにしたい」という考えに賛同された父兄のみなさんが果実酒製造免許のために1980(昭和55)年に設立したのが有限会社「ココ・ファーム・ワイナリー」です。現在の法制度では社会福祉法人には葡萄をワインにする果実酒製造免許が下付されないためだそうです。発酵に野生酵母や野生乳酸菌を使用する手間をかけた自然なワインの味が評判となり、「2000年九州・沖縄サミット」「2008年北海道洞爺湖サミット」やJAL
/ANAの国際線等で使用実績があります。
今回の自主トレは足利市駅から「ココ・ファーム・ワイナリー」までの約6キロを歩き、ワインとランチで舌鼓を打つ計画です。39組・佐々木くんは奥様同伴での参加でした。
集合場所の足利市駅には昨年の5月に訪問しています。その時は足利市内の観光ポイントをウォーキングしてから「あしかがフラワーパーク」で薔薇を鑑賞しました。渡良瀬川に架かる「中橋」と両毛線の踏切を渡ると、足利一門の氏寺「鑁阿寺(ばんなじ)」の境内が見えてきます。その近くに、前回ランチタイムにお邪魔した「銀釜」があります。その折りには有名な釜飯は堀之内くんしか食べられませんでしたが、今回の打ち上げでは、必ず、みんなで釜飯を食べようと歩きながら話が弾みました。
また「銀釜」の隣には約20年前に営業をやめた廃墟ビルが残っていました。旧「足利東映プラザ劇場」とのこと。でもGoogleマップでは「劇場通り」と記載されたアーケードになっています。…これはどういうことでしょう?
答えは、足利市が「映像のまち あしかが」として映画による地域振興を行っており、この場所が2017(平成29)年に撮影され、今年2月に封切られた、綾瀬はるか主演「今夜、ロマンス劇場で」のロケで使われたということです。「劇場通り」はその時に使われたセットの街路名称で、それがそのまま残っているようです。
鑁阿寺は、源姓足利氏二代目・足利義兼公の邸宅だったところで、立派な外堀を備えています。その堀に沿って歩き、足利市街地を通る県道293号を道なりに左に曲がり、足利女子高等学校(通称:足女)の前を通りました。足利市の名門高校は「足高(あしたか)」「足女(あしじょ)」と呼ばれており、「足高」(足利高等学校)は500メートルぐらい離れた足利城跡の麓にありました。少子化のため2022年に「足高」「足女」が統合されて共学校になる計画が発表されたようです。
足利城跡の手前を右に曲がり、県道288号線に沿って歩いていくと、「ココ・ファーム・ワイナリー」への案内板を見つけた後方の川島さんたちから“分岐ですよ”という声が聞こえてきました。どうやら「田島町」の入口に差し掛かったようです。先ほどまで本隊と離れ、ひとりで暗渠巡りしていた飛田くんは違う方向に進んでいたので、合流するまでちょっと休憩となりました。
北関東自動車道の高架を潜ると、「ココ・ファーム・ワイナリー」への矢印があり、さらに小さな川を渡ると「ココファーム入口」のバス停がありました。ここから登り勾配がきつくなりましたが、なんとか標高差約70メートルを登りきると、手前に「こころみ学園」、奥に「ココ・ファーム・ワイナリー」の施設がありました。
まだお昼前ですが、待ちきれずワインの試飲にチャレンジです。残念ながら高沢くんはお酒が飲めないので7名が参加、5種類のグラスワインが出されました。「こころぜ」「農民ロッソ」など、ワインの独特なネーミングが興味深かったです。ものすごいスピードで試飲し終える方も、ゆっくり味を確かめるように試飲する方もいました。
試飲のあとはランチです。右写真のようなちょっとしたパーティができるぐらいの大きなテーブルに通されて、骨つきソーセージや数種類の季節のサイドディッシュ・サラダ・パンが盛られたワンプレートランチをワインと共にいただきました。
ランチの後はワイナリーの見学です。案内の方は川田昇先生とずっと一緒に活動されてきたのか、先生との思い出を活き活きと語られました。傾斜が35度もある山間地をまるで“衝動買い”のように購入したいきさつや、重労働に耐え汗を流す「作業学習」によって集中力を高めていく利点、不安定な急斜面での作業には脳がつかさどるさまざまな感覚を高める効果もあることなどの説明を受けました。右の写真は、ひんやりとしたワイン熟成庫での説明の様子です。
見学終了後、ワインショップでワインや農産品のお土産をそれぞれ購入しました。7月28日開催予定(【注釈】台風のため中止、日を改めて開催の予定)の柏の葉でのBBQ用にも2本のワインを購入しました。
帰り際、山頂の見晴らし台まで歩けるという案内板があったので、せっかくなので登ることにしました。高沢くんが、昔、来たことがあり、見晴らし台まで登った記憶があるということで、みんなで付いて行きました。下からざっとみて70メートルぐらい登ることになりますね。右の写真は葡萄畑中段の作業道路上で撮りました。高沢くんの記憶では「最初は急傾斜だがだんだん緩くなる」ということでしたが、結局、緩くなるところは山頂までありませんでした。たぶん記憶違いだったのでしょう。さらに、高沢くんはこころみ学園の生徒さんに「どこからきたの?」などインタビューされていました。さすが、人気者!
今回はワイン三昧の緩い自主トレのはずでしたが、結局、合計140メートルも登ることになり、なまっていた足腰はしっかり鍛えられたことでしょう。
帰りは、佐々木くんがバス時刻表を一生懸命に調べてくれた結果、「ココファーム入口」バス停ではなく、次の「赤松台北」で乗車する便を見つけ、バスで「足利学校東」まで移動しました。どうやら「ココファーム入口」まで入らない便があるようです。
次に「足利学校東」バス停近くの「太平記館」で小休憩。ここには1991(平成3)年に放送された大河ドラマ「太平記」で、主人公尊氏役の真田広之さんが着用した鎧が展示されていました。「太平記館」には売店もあり、椅子もあるので、ゆっくり休憩することができました。
しかし、まだ「銀釜」の開店時刻ではないので、時間がくるまで鑁阿寺境内を散策することにしました。話によると鑁阿寺の堀にはカルガモ親子がいるということで、佐々木くんの奥様が一生懸命探しましたが見つけられず、そのまま太鼓橋を渡って鑁阿寺に入りました。山門近くで鑁阿寺の案内地図を見ていた飛田くんが、はたと、「カルガモは、この『心字池』に居るはず」と言いだしました。堀から築提を越えた場合、一番近いのは「心字池」と推理したそうです。流石の推理力!
右の写真のように、見事、カルガモ親子を発見できました。
そして、そろそろ「銀釜」の開店時刻4時なので、鑁阿寺参道を歩き、足利尊氏公像の前を通って、開店と同時刻に「銀釜」に着きました。季節ごとの具材が入った釜飯もあり、注文した具材を入れた釜飯が炊き上がる姿も見られ、釜飯が出てくるまでの時間はあっという間の感じでした。
今回はワインと釜飯だけでなく、「こころみ学園」を創立した川田昇先生のお考えやいろいろなご苦労などを知ることができ、非常に有意義な自主トレでした。
【撮影】佐々木くん(39組)【報告】 小久保(35組)
●柏の葉公園BBQ編(平成30年9月17日開催)
場所:柏の葉公園BBQ場
参加者:雨澤さん、石井くん(以上31組)、堂(飛田)さん(33組)、川島(唯根)さん、
汀くん(以上34組)、小久保(35組)、飛田くん(37組)、江戸くん(38組)、
飯村くん、堀之内くん、佐々木くん(以上39組) 合計11名
概要: 当初は平成30年7月28日に予定していたものの台風のため延期としていた柏の葉公園BBQを9月17日(月・祝)に開催しました。秋の日差しが優しく、屋外でのBBQに心地よい日和でした。残念ながら、7月28日開催予定の時には申し込んでくれた松浦くん(31組)と深津くん(34組)は、今回は都合が悪く不参加となりました。
午前11時30分に柏の葉公園に集合。堀之内くん運転の車で朝から買出し隊を引き受けてくれていた川島さん、江戸くん、飯村くんは、持ちきれないほどの食材と飲み物を買ってきてくれました。特に江戸くんは出身の大洗で早朝に仕入れた海の幸を発泡スチロール一杯に持ってきてくれました。ビールは小久保が「軽井沢ビール」、ワインは6月自主トレで川島さんと堀之内くんが調達した「ココ・ファーム・ワイナリー」の2本に加え、佐々木くんが追加で1本を持ってきてくれました。さらに堂さんがおつまみ各種、雨澤さんがいろいろ便利なキッチン用品を用意してくれました。
最初に飯村くんのイギリス仕込みのお手製ピムズで乾杯しました。きゅうり、レモン、それにパイナップルも入ったスペシャルバージョンです。
BBQ料理に関しては焼けると直ぐ食べてしまったのですが、雨澤さんが写真を撮っていました。岩ガキ、イカ、エビ、ホタテ、ハマグリなどの新鮮な食材を江戸くんが腕によりをかけて下準備から焼きまで完璧な調理をしてくれ、とても美味かったです。
海の幸を念入りに下準備中の江戸くん 飯村くんお手製のピムズで乾杯
岩ガキ エビとハマグリ
お肉は高級肉と普通の肉が適度に混ざって選択されており、買出し隊はさすがの買い物上手。そして炭火オーブンの火当番は主に飛田くんが熱さに耐えながら担当してくれました。
さらに堀之内くんが「ためしてガッテン」で覚えた焼きそばの担当です。しかし利用時間終了間際の調理となってしまい、あたふたと食べることになりました。最後にデザートとして石井くんが水菓子を持ってきてくれました。さっぱりした甘さが好評でした。
残り時間30分となり係員から「間もなく時間ですよ」と急かされるまでBBQを行っていたところ、ゴミは制限時間までに集積所に片付けないと自分たちで持ち帰ることになるということなので、大急ぎで後片付けを行いました。すべての片づけを終えて、“満腹、満腹”の状態で記念写真を撮りました。
最後に、車できていた堀之内くんは写真のようにかなり酩酊していましたが、事前に予約していた運転代行を利用して無事帰路に着いたことを報告しておきます。
慌ただしく後片付けをして記念撮影、みんな、満腹 満腹でした。
【撮影】雨澤さん(31組)・佐々木くん(39組)【報告】 小久保(35組)
●宝篋山編(平成30年11月10日開催)
コース:TXつくば駅=(つくバス 小田シャトル)=小田東部~宝篋山小田休憩所~
(極楽寺コース)~宝篋山山頂~(小田城コース、中世城の道)~宝篋山小田休憩所~
小田城歴史ひろば案内所~小田城跡~ギャラリーカフェ梟(休憩)~小田東部=
(つくバス 小田シャトル)=TXつくば駅 (打ち上げ) (8キロ)
参加者:雨澤さん(31組)、汀くん(34組)、小久保(35組)、石原(旧姓小野)さん、
飛田くん、高沢くん(以上37組)、酒井(旧姓武石)さん、江戸くん(以上38組)、
飯村くん、堀之内くん(以上39組) 合計10名
概要: 6月自主トレ後のメールのやり取りで、「ホリホリ」こと堀之内くん(39組)が体脂肪率が低いわりには筑波山にも登れないことが判明。これに対し、酒井さん(38組)から「宝篋山ならば筑波山の半分ぐらいだから登れる」と推薦があり、飛田くん(37組)が今回の自主トレコースを提案してくれ、「ホリホリ企画、みんなで宝篋山を登ろう!」を開催することになりました。
宝篋山は筑波山から南に7キロ離れたところにあり、標高461メートル(ちなみに筑波山は877メートル)です。山頂に宝篋印塔が建っていることから宝篋山と呼ばれています。付近にはNHK「歴史秘話ヒストリア」(平成30年6月13日放送)で取り上げられた戦国最弱武将・小田氏治の居城であった「小田城」跡があるので、帰りに立ち寄ることにしました。
今回の集合場所「小田休憩所」へのルートは、つくば駅からと土浦駅からの2つがあり、皆さんの住まいから便利な方をそれぞれ選択してもらいました。私はつくばセンター(TXつくば駅)から「つくバス」を利用しました。バス乗り場で待っていると、常磐線の土浦駅から関東バスを利用する予定の江戸くん(38組)から電話があり、土浦駅に着いたもののバス停が分からないということ。目的地の「宝篋山入口」に向かうバス停を訊ねたが誰からも「知らない」といわれたという話でした。このバス路線は土浦駅~筑波山口のことですが、バス停名称が2016年8月に「小田十字路」から「宝篋山入口」へ変更されました。2年近く経つのに、まさか知られていないのでしょうかね。
しばらくしてバス停が見つかったという電話があり、安心しました。私たち(汀くん、石原さん、飛田くん、飯村くん、堀之内くんと小久保)は「つくバス」の小さなバスに揺られること約1時間で「小田東部」バス停に到着しました。バス停から住宅街を抜け、小田十字路を渡って、集合場所の小田休憩所に午前10時30分過ぎに到着しました。
ひたちなか市から自動車利用の酒井さん、土浦駅からバス利用の江戸くんと高沢くんもまもなく無事到着し、宝篋山小田休憩所で記念写真を撮影しました。まだ登る前なので、もちろんみんな元気です。
左端の飯村くんの後ろの案内板には、当時の想像図が描かれており、宝篋山は山城として利用されていたようです。
では、出発!
小田休憩所から田圃道を歩き、少し登り勾配となったところに忍性(にんしょう)ゆかりの「三村山清涼院極楽寺」跡がありました。ここは鎌倉時代の僧・忍性が常陸国に滞在し、律宗の布教活動を行った拠点ということです。後に忍性は鎌倉の極楽寺を開山しました。さらにハイキングコースを登った極楽寺奥の院跡には鎌倉時代後期に制作の五輪塔がありました。
ここからは沢伝いに「慈悲の滝」「五条の滝」「こころの滝」「葵の滝」と名付けられた滝がある急斜面を、こまめに休憩をとりながら登って行きました。登り勾配が苦手な堀之内くんにとってはかなりきつかったようです。しかし、汗だくになりながら少し遅れ気味でも何とかついてきました。最後に、大きな岩がごろごろしている「大岩群」を登り切ると、宝篋城跡である空堀や土塁跡がありました。さらに登ると、宝篋山山頂のシンボル、宝篋印塔(写真右)に到着しました。
全体としてはかなりゆっくりペースを維持しましたが約1時間30分で登り切ることができました。「宝篋山トレッキングマップ」では極楽寺コースの登りは1時間45分ということなので、少し早めの到着、みんな、まだまだ元気です。
到着が12時を過ぎていたので、既に山頂には沢山のハイカーがお昼で寛いでいました。しかし、幸いにも筑波山が正面に見える格好の斜面に一列にレジャーシートを広げることができ、並んでお昼を食べました。堀之内くんはお手製の「いくらの醤油漬け」を持ってきてくれました。さっぱりした塩味で美味しくおにぎりを食べることができました。
下の写真はくっきりと見える筑波山を背景に撮影しました。
帰りは小田城跡に降りる「小田城コース」を下山しました。尾根伝いに降りるルートです。軽快にといきたいところですが、下り道の方が危ないので、慎重に歩を進めました。イノシシによる穴がそこかしこに掘られていて、登山道が荒らされていました。とても崩れやすい状態でしたので一層の注意が必要でした。
小田城コースの途中、愛宕神社がある付近で「中世城の道」と名付けられた道へ入り、平地を見下ろす断崖の上を歩くコースをとりました。途中、断崖の上から関東平野を一望できる「要害展望所」からは「小田城跡」が間近に見えました。さらに少し歩くと、苔むした石仏が並んでいる「太子堂」がありました。最後に出発地の「小田休憩所」に午後2時30分過ぎに到着しました。ここで、高沢くんと石原さんは所用があり早めに帰宅するということで、午後3時4分発のバスで土浦駅に向かいました。それを逃すと1時間20分待ちとなるので、賢明な判断でした。
残った7名で「小田城跡歴史ひろば案内所」を見学しました。案内所はかつて筑波鉄道が走っていた時の小田駅跡に建っています。現在の筑波鉄道跡は「つくばりんりんロード(40km)」としてサイクリストに人気のスポットとなっています(「霞ヶ浦湖岸道路(140km)」と合わせた「つくば霞ヶ浦りんりんロード」は全長180kmで、国内最大の長さを誇ります)。この案内所である小田駅跡には駅のホームがそのまま残されていました。
小田城跡歴史ひろば案内所で小田氏や小田城のことを俄か勉強してから「小田城跡」に向かいました。田圃の下1メートルぐらいから発掘された土塁や建物跡をもとに、地上2~3メートルまで嵩上げして、当時の様子を再現していました。
下の写真は「東虎口跡」から宝篋山に向かって撮影しました。ちょうど、堀之内くんの頭の右側に見えるのが宝篋山山頂にある通信アンテナの施設です。廃線前の筑波鉄道はこの後ろを斜めに横切っていたことになります。当時は一面田圃なので、小田城跡を横切っていたとは分からなかったことでしょう。なお、小田城跡の詳細はパンフレット「小田城跡歴史ひろば」をご覧ください。
「小田東部」バス停のある道に出たところで、自動車で来ていた酒井さんとお別れしました。残った6名で「つくバス」を待つことになりましたが、まだ小1時間もありました。幸い、近くに蔵をカフェに利用している「ギャラリーカフェ梟」というお店が開いており、座って過ごすことができました。シルクスクリーンや絵画が展示されており、静かなひとときでした。そして午後4時過ぎの小田シャトルに乗車し、午後5時前につくばセンターに到着しました。打ち上げはつくば駅前の商業施設「BiViつくば」内にある北海道直送の海鮮のお店で行いました。TX沿線住まいの雨澤さん(31組)も参加して、打ち上げは7名で賑やかに行いました。
宝篋山を400メートル級の低い山と云って侮ってはいけません。結構きつい登りでした。しかし一歩一歩踏みしめて登れば、頂上には必ずたどり着くので、ペースを上げすぎずにこれからも頑張りましょう。
【撮影・報告】 小久保(35組)
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