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第13回「復活・歩く会」合同自主トレ総集編

【イベント報告】掲載:令和元年9月18日

●築地から豊洲へ編(平成31年1月26日開催)

コース:有楽町駅(南町奉行所跡)~浅野内匠頭屋敷跡~築地本願寺~
    築地(「築地場外魚河岸食堂」で遅めの昼食)~波除(なみよけ)稲荷~築地大橋~
    中央清掃工場煙突~豊洲大橋~豊洲新市場~ゆりかもめ 新市場=豊洲=
    有楽町線 月島~新年会(わらしべ2番街店) (約8キロ)

自主トレから参加:
    石井くん(31組)、島田くん(33組)、川島(旧姓唯根)さん、深津くん(以上34組)、
    小久保(35組)、飛田くん、高沢くん(以上37組)、江戸くん(38組)、
    佐々木くん、飯村くん、堀之内くん(以上39組) 11名
新年会から参加:
    雨澤さん(31組)、汀くん(34組)、海老澤くん(38組)、大島くん(39組) 4名

概要: 平成31年の新年会を兼ねた自主トレを開催しました。有楽町駅前広場に南町奉行所の遺跡があり、ここが今回の集合場所です。しかし、あまり有名ではないようで、何名かの方は場所が分かりませんでした。有楽町の駅から直ぐなんですけど。その方々には「この桜吹雪が目に入らぬか…」と金さん(遠山景元、1845(弘化2)年~1852(嘉永5)年の南町奉行)からお叱りがあることでしょう。  
 道に迷って、なぜか晴海通りまで行ってしまっていた深津くん(34組)が最後に到着して、全員集合。しかし、遺跡の前には「伊豆七島のイベント」のテントが張られて、遺跡に入れないようになっていました。イベントの関係者の方に遺跡の前を塞ぐとは何事か、と厳しく(!)尋ねたところ、「写真を撮るだけならお入りください」ということで、出発前の写真を撮ることができました。まあ、返答次第では遠山桜に訴え出たかもしれません。
 駅前広場から、シャネルなど高級店が出店している銀座2丁目の通りを築地方面に歩き出しました。東京メトロ日比谷線の築地駅を過ぎると築地川公園が見えました。江戸時代は隅田川につながる運河だったのですが、現在は大半が埋め立てられて公園となっています。
 島田くん(33組)に「次の目的地は浅野内匠頭屋敷跡」と話したら、行ったことがあるから大丈夫と案内役を買って出てくれました。しかし、築地川公園の中をうろうろしただけで、辿り着きません。築地川公園の反対側歩道の先で若い女性が拝んでいるような姿が遠くから見えたので、その場所に行ってみると、「浅野内匠頭邸跡」の石碑が建っていました。島田くんを信じたのが悪かったかもしれません(笑)。
 そして浅野内匠頭邸跡の隣には、「芥川龍之介生誕の地」の碑がありました。自主トレで平成28年12月に両国駅付近を歩きましたが、その時は吉良邸跡、芥川龍之介が育った両国小学校を訪れていました。
 次は築地本願寺を参拝しました。築地本願寺(浄土真宗本願寺派)には平成27年12月の自主トレで訪れました。築地本願寺は、元々は江戸時代(1617(元和3)年)に現在の東日本橋に建立されましたが、明暦の大火で本堂を焼失。現在の地に海を埋め立てて土地を築き建立されました(地名「築地」の由来)。現在の本願寺の本堂は1934(昭和9)年に再建されたもので、インドの古代仏教建築を模した外観を有しますが、内部は伝統的な真宗寺院の造りです。2014(平成26)年、本堂・石塀・三門門柱(正門・北門・南門)が国の重要文化財に指定されました。
 ところでいままでの写真には、サングラスをかけたビジネスマン風の謎の紳士が写っていますが、37組の飛田くんです。広島出張からの帰りで羽田空港に当日朝に到着後、そのまま自主トレに参加したので、スーツ姿というわけです。
 次は赤橙色のジャケットが目立つ39組・佐々木くんの案内で築地場外市場を見学しました。お昼を過ぎた遅い時間帯だったので、残念ながらもうお店じまいの頃合いでした。築地場外で買い物するならば早い時間帯でないといけません。そうそう、今日のお昼は、大島くん(39組)ご推薦の「築地場外魚河岸食堂」です。でも大島くんはまだいません。それは、責任重大な孫守が急遽入ってしまい、遅れての参加となったためです。
 「築地魚河岸」は晴海通りと波除通りの間にあるウナギの寝床のような細長い建物で、2016(平成28)年に完成しました(小田原橋棟と海幸橋棟の2棟構成)。ここは中央区が設置した生鮮市場で、仲卸を経営母体とした小売60軒が入居しており、築地市場移転後も築地の活気と賑わいを将来に向けて継承するために設けられました。ここの「小田原橋棟」3Fの魚河岸食堂で、グループに分かれて、お好みのお店で海鮮丼などを食べました。ただし午後2時には閉店となったので、食べたらすぐにお店を出なければなりませんでした。
 もう一つの建物の「海幸橋棟」の屋上から解体途中の築地市場(写真右)が見えました。貨車が入れるように曲がっていたところはまだ残っていましたが、その前の部分は取り壊されていました。「海幸橋棟」から出ると、眼の前に波除稲荷があります。信心深い(?)島田くんのたっての希望で参拝することになりました。
 波除稲荷神社は、4代将軍家綱公が埋立工事を手掛けていた1659(萬治2)年に海で見つかった稲荷大神のご神体に由来しています。人々が畏れ、現在の地に社殿を作り祀ったところ、それまで堤防を築いてもすぐに壊れていたのが、それ以降、波風がピタリとおさまり、工事は着実に進み、埋め立てが完了したということです。
 波除稲荷の境内の左手には、ここが江戸時代からの魚河岸だったということから、慰霊のため、いろいろな生き物の塚(活魚塚、鮟鱇塚、海老塚、すし塚、玉子塚、昆布塚など)が設けられていました。
 次の目的地は、堀米(旧姓坂本)さん(38組)お勧めの場所です。堀米さんは今回は参加できませんでしたが、「コースについてですが、環状2号線が開通し、歩道もあるので、ぜひルートに入れるといいと思います。」というメールを送ってくれていました。解体作業中の築地市場の前を通過して、対岸に浜離宮が見える仮設の歩道を何とか探し当てて、隅田川に架かる築地大橋を渡りました(写真右)。堀米さんのメールには「ここに行くために電動アシスト自転車を買いました。」とも記されていました。メールを受け取った時には意味がよく分かりませんでしたが、実際に歩いてみると橋の端部と中央部との高低差が半端ではなく、電動自転車が必需品ということを実感しました。そして反対方向から自転車が猛スピードで降りて来るので要注意でした。
 清澄通りとの交差点で右に曲がり、住友不動産勝どきビルの南側を歩きました。ここは月島・勝どきの埋め立て地の最後となったところで、1963(昭和38)年に住民投票で「豊海」と名付けられたそうです。
 さらに朝潮運河に架かる朝潮小橋を渡りました。朝潮小橋は歩行者専用の橋で、レインボーブリッジがよく見えました。朝潮小橋を渡り切ると晴海です。れいめい橋公園通りを歩き、聳え立つ中央清掃工場煙突に到着しました。右の写真のように、われらが名カメラマン・佐々木くん(39組)が苦心しても、煙突は先端が写らないほど高かったのでした。
 そうそう、中央清掃工場というとピンとこないかもしれませんが、「晴海国際展示場」の跡地といえば懐かしく思われるのではないでしょうか?
 中央清掃工場煙突から100メートルぐらいのところに「東京国際見本市会場記念碑」がありました。かつてここで東京モーターショーが行われた期間【1959(昭和34)年から1987(昭和62)年まで晴海開催】に水上バスで来た記憶があります。
 現在のこの地は2020年に向けて大きく変貌を遂げようとしています。右の写真のように東京オリンピックの選手村が建設途中で、沢山のビルが工事中でした。この写真は対岸の豊洲から建設中の選手村を撮影したものです。
 そして、豊洲大橋を渡って、豊洲新市場前に到着しました。築地大橋から約2キロです。下左の写真は、堀米さんお薦めの「豊洲ぐるり公園」で豊洲新市場の建物を背景に撮影しました。また、下右の写真は、豊洲新市場の屋上緑化広場のエレベータホールから晴海方面を撮影しました。高くて見晴らしの良いところでした。

 

 豊洲新市場の屋上で、孫守から解放された大島くんから携帯に電話があり、「水産仲卸売場棟」3階の飲食店舗街で合流できました。まもなく午後4時になるところで、行程はかなり時間が押していました。新年会開始時刻がせまっているので、月島まで歩く計画は断念し、ゆりかもめで豊洲まで移動しました。そして、日中は仕事だった汀くん(34組)と連絡がとれ、豊洲駅で合流しました。豊洲駅からは東京メトロ有楽町線で月島駅に移動、無事、新年会の時間前に到着しました。新年会は月島駅から5分ぐらいの月島2番街にあるもんじゃ「わらしべ」で、海老澤くん(38組)、少し遅れて雨澤さん(31組)も到着しました。参加者合計15名で4テーブルを使った新年会を“それぞれ流”のもんじゃ調理方法で美味しくいただき、賑やかな話題のなか、楽しい時間を過ごしました。

【撮影】佐々木くん(39組)【報告】 小久保(35組)

●市川・松戸編(平成31年3月2日開催)

コース: 市川駅~大川原梅園~戸定邸~大谷口歴史公園~小金城趾駅=(流鉄流山線)=
     幸谷駅~新松戸駅(打ち上げ) (約15キロ)

参加: 石井くん(31組)、水飼くん(32組)、深津くん、汀くん(以上34組)、小久保(35組)、
     飛田くん、高沢くん(以上37組)、酒井(旧姓武石)さん、江戸くん(以上38組)、
     堀之内くん(39組) 10名
     打ち上げ参加:雨澤さん(31組)

概要: ひな祭り前日の開催なので、水戸11代藩主・徳川昭武公の住居だった戸定邸(とじょうてい)で開催されている「戸定さくら雛」を鑑賞に出かけました。今回は水戸市立緑岡中の同窓会で会った32組・水飼くんが初参加です。
 市川駅に10時30分に集合し、まっすぐ北に向けて歩き出しました。この付近の地名は「真間」ですが、これは「崖」を意味します。2017(平成29)年3月の自主トレで行徳を訪れたとき、「欠真間(かけまま)」という地名がありました。この真間(崖)が大津波で欠けて流され、その流された土砂でできた下流の新しい土地のことを「欠真間」と呼称していました。そう、今日の行程は崖、つまり、自主トレにふさわしい急な登り坂になっているということです。
 「真間」を過ぎ、「国府台(こうのだい)」という地名になりました。ここは、律令時代以降、下総の国府が置かれたところです。そして予定通り、かなりの登り坂になってきました。右の写真は国府台公園を過ぎたところにある「じゅん菜池緑地」で撮りました。台地と台地の間の崖部に入り込むように細長い低地帯ができ、そこに水が溜まり池になっていました。この池には昔はたくさんのじゅん菜が自生していたということです。しかし、昭和の初期に沼が干上がってしまったため、現在、じゅん菜はすべてなくなってしまったとのこと。残念ですね。
 じゅん菜池のほとりに梅が咲いていたので、記念写真を撮りました。ここまで登ると台地の上に出たようで平らになりました。











 地下を通っている北総鉄道を地図上で過ぎたあたりに、2本のイチョウの大木が並んで聳えていました。「樹齢約350年」と記した手書きの案内がありました。このイチョウは100メートルぐらい離れた愛宕神社の参道に植えられたものですが、右の写真のように2本とも接近して大樹になりすぎたため、参道を塞ぐようになってしまいました。このイチョウは市川市の天然記念物に指定されています。
 愛宕神社のイチョウから少し歩くと、2018(平成30)年6月に開通したばかりの東京外環道(地下区間)に出ました。地上からの接続道路を渡ると、最初の目的地「大川原梅園」に到着しました。







 「大川原梅園」はハーブ園も併設しており、閑静な住宅街の中にありました。その中は結構広く、右の写真のように沢山の梅の花が咲いていました。「大川原梅園」は梅の実の収穫を目的に栽培してしますが、ご厚意で梅の花が咲く季節は開放してくださっているとのことです。梅の花が香るよい季節で、沢山の方が散策されていました。
 さて間もなく12時になるところなので、この近くで昼食をいただきましょう。


 本日は「麺場 田所商店 松戸二十世紀が丘店」でラーメンです。このお店は味噌ラーメンの専門店で、日本全国、例えば北海道、九州、信州の味噌を使っており、味噌に拘っているお店だそうです。お昼時で混んでいたので、バラバラになって座り、好みの味噌を選びました。
 ところで、ここのお店についている地名「二十世紀が丘」は珍しい地名ですよね。二十世紀といえば、前世紀のことではなく、多くの方は「梨」を思いつくでしょう。そうです。1888(明治21)年に当時13歳の松戸覚之助少年によって発見され、1904(明治37)年に命名された「二十世紀梨」に因んで名付けられた地名なのです。
 午後の最初の訪問地は「戸定邸」(国指定重要文化財)。千葉大園芸学部の構内を経由して入りました。最後の将軍・慶喜公の弟にあたり、最後の水戸藩主となった徳川昭武公の邸宅です。1884(明治17)年4月に座敷開きが行われ、その後、増築され、現在は9棟が廊下で複雑に結ばれ、部屋数は23、明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残る唯一の建物だそうです。欄間に葵の文様が入れられていました。また、今回は観ることはできませんでしたが、眼下の江戸川の方向には富士山も見えるということでした。さらに主屋の南に広がる起伏のある芝生地とその緑辺を彩る植樹を含めた庭園が2015(平成27)年に国指定名勝に指定されました。
 下の写真は「戸定さくら雛」というイベントで、松戸宿坂川献灯まつり実行委員会おかみさん会の皆様が作った戸定さくら雛で、戸定邸庭園を見渡せる表座敷棟に展示されていました。ひとつひとつ丁寧に作られ、色艶やかな見事なお雛様でした。




 戸定邸を後にして、坂川沿いで行われている「河津さくら祭」を見に行きました。松戸神社のところから入ったのですが、割とすぐに終わってしまいました。実は河津桜の多くはもっと下流の方に植えられているということで、今回はちょっとしか楽しむことはできませんでした。
 そして最後の目的地、小金城に向かいます。松戸駅を過ぎ、江戸時代に掘削された坂川に沿って上って行くのですが、坂川は人工の川、単調で真っすぐの道です。途中にヤマザキパンなどの工場や松戸競輪場があるのですが、変化のないウォーキングでかなりきつい歩きになりました。今回、高沢くんは所用があるため馬橋駅で帰宅しました。
 馬橋駅からは流鉄流山線に沿って歩き、幸谷(こうや)駅を過ぎて、さらに歩くと、登り坂となりました。どうやら小金城跡に到着したようです。といっても周りは住宅街。小金城は戦国時代に高城氏により築城され、1590(天正18)年の豊臣秀吉の関東攻めによって開城され、その後、廃城となりましたので、宅地化が進んでしまったようです。
 大谷口明神神社の脇を抜け、馬屋敷跡を通って、大谷口歴史公園の碑があるところに到着しました。ここが小金城の北の虎口、金杉口にあたります。脇から登っていくと、底を障害物で仕切った堀、いわゆる障子堀跡がありました。城跡らしい遺跡です。
 下の写真は、頂上の平らな所に設置された小金城の碑です。石井くんと水飼くんの間に現在の航空写真にお城の見取り図を重ねた図面が掲載されており、これを見ると本城はここから南側の流鉄流山線沿いの崖の上だったようですが、現在は宅地化されており、城跡らしいものは残っていないようです。

  小金城跡から西に300メートルぐらい歩き、小金城跡駅に到着しました。この小金城跡駅の建物の形は変でした。実は、駅舎とつなげる形で建設されていた「大金平県営住宅」だけが2015(平成27)年に取り壊され、駅舎が単独の建物になったので、駅入り口の階段が後付けされて、違和感がある建物になっていました。
 小金城跡駅から流鉄流山線で(先ほどは歩いて通過した)幸谷駅まで乗車し、すぐ目の前の新松戸まで歩きました。ここで酒井(武石)さんと深津くんは帰宅し、残りのメンバーで新松戸駅そばの「魚三郎」で打ち上げを行いました。今回、お仕事の合間を縫って雨澤さんも参加してくれました。下の写真は、泥酔している堀之内くんを飛田くんが支えながら撮った記念写真です。

(

 今回は、市川市から松戸市にかけての歴史を廻りました。特に徳川昭武公の邸宅「戸定邸」に綺麗に飾り付けられたさくら雛や戦国時代の城址を見学しました。また、梅や河津桜の花が咲き誇っている様も見ることができました。まだまだ知らない歴史的なものや美しい自然がたくさんあると思います。これからも楽しく散策できるようにしたいと思います。

【撮影・報告】 小久保(35組)

●狛江から国立天文台編(平成31年4月20日開催)

コース: 狛江駅~福得弁財天~龍泉寺~多摩川堤防~下布田遺跡~
     國領神社(藤の木が有名)~深大寺~国立天文台=(バス)=
     中央線武蔵境駅(打ち上げ)(約10キロ)
参加: 水飼くん(32組)、阿部くん、汀くん(以上34組)、小久保(35組)、水村くん(36組)、
    飛田くん、(37組)、海老澤くん(38組)、飯村くん、堀之内くん(以上39組) 9名
    ただし阿部くんは国立天文台からの参加。

概要: 好天に恵まれたハイキング日和、狛江駅から多摩川沿いに歩き、深大寺を経て、国立天文台を見学しました。32組・水飼くんは以前この付近に住んでいたということで、土地勘があり、道案内をしてくれました。
 狛江駅のすぐそばに泉龍寺があります。言い伝えによると、泉龍寺は伊勢原の大山寺も開いた良弁(ろうべん)僧正が765(天平神護元)年に開いたという歴史あるお寺です。昔は狛江駅付近まで泉龍寺の境内だったそうですが、東京都が1987(昭和62)年に指定した狛江弁財天池特別緑地保全地区に含まれ、その後、狛江市によって整備され、市民ボランティアに管理されています。そのため、現在も右の写真のように駅の傍なのに静かな森となっています。
 泉龍寺で有名なのは、珍しい二層式の鐘楼門と弁財天池。弁財天池は良弁僧正が雨乞いをしたときに湧きだし、それ以来、枯れることのない霊泉と伝えられていました。しかし周辺の都市化で水の汲み上げ量が増えたためか、1967(昭和42)年には残念ながら枯れてしまったとのことです。現在は「深井戸掘削工事」により地下水を取水しているということです。
 泉龍寺から世田谷通りを下り、都立狛江高校のグラウンド脇を通って、多摩川堤防に出ました。ちょうど日活調布撮影所があるあたりになりますが、右の写真の後ろに見える「二ヶ領上河原堰(にかりょうかみがわらぜき)」まで歩きました。1611(慶長6)年のこの堰の完成により、多摩川南部(現在の神奈川県側)で新田開発ができるようになり、江戸時代の農業生産の向上に大きく寄与したということです。
 染地二丁目の交差点で先ほどの日活調布撮影所の脇を過ぎ、布田南通りを北の方向に歩き、国指定史跡・下布田遺跡に向かいました。下布田遺跡は湧水を利用した縄文人の生活痕跡で、狩猟採集社会から農耕社会へと移行する複雑な社会構造を究明する上で重要な遺跡だそうです。現在は保存整備計画を策定中とのことで、遺跡の案内板がなければ単なる「野原」のような状態でした。
 下布田遺跡を後にして住宅街を歩くと、2012(平成24)年8月に地下に移された京王線の地上部に出ました。すでに線路は撤去されていましたが、線路敷地内はフェンスで仕切られ、側道を歩いて布田駅に到着しました。布田駅エリアは、調布駅エリアや国領駅エリアとともに、調布市の「中心市街地まちづくりプログラム」として跡地利用の議論が進められているようです。布田駅から北に歩き、旧甲州街道を横切り、国道20号線のところに國領神社がありました。國領神社は、かつては多摩川沿いに祀られていましたが、江戸時代に甲州街道沿いに遷座されたとのことです。
 國領神社の御神木である藤の木(写真左)は「千年乃藤」と呼ばれています。私たちが訪れたときはまだ咲き初めでしたが、翌週(4月28~29日)に行われた藤祭りの時は綺麗に咲き誇ったようです。
 今回、自主トレ申し込みの時には昼食に「深大寺そば」がよいと熱望していた33組・島田くんでしたが、仕事のため、急遽、残念ながら欠席となってしまいました。そのためお昼はお腹が空いたときに食べるということになりました。ちょうど國領神社の近くに「神戸屋レストラン」がありましたので、パンをメインにした、ちょっとおしゃれな昼食をいただくことにしました。このお店ではランチのパンは食べ放題です。**くんは、ウェイトレスさんの持つ籠に入っていない種類のパンをあえて選んで注文していましたが、ウェイトレスさんは快く何度も往復してくれました。良いサービスのお店だということが分かりました。
 午後は三鷹通りを深大寺に向けて歩きました。佐須町の交差点を過ぎたところで、右の写真のように藤の花が家全体を覆うように見事に咲いているお家を見つけました。ここは「千年乃藤」よりも日当たりが良いためか、丁度、見ごろとなっていました。
 さらに北に歩き、深大寺バス停のところで中央高速道路を潜り、さらに歩くと深大寺通りにでました。この日は立ち寄れませんでしたが、近隣の神代植物公園・水生植物園内に「深大寺城跡」があると城マニアの37組・飛田くんに話すと、後日、単独登城したということです。
 深大寺には2011(平成23)年5月の自主トレで参拝したことがありました。その時のHP記事を読み返してみると、「元祖 嶋田屋」でおそばとビールでお昼を堪能したようです。島田くんはその時も不参加でしたので、次回の「深大寺そば」への参加をお待ちしております。
 今回はお昼をすでに済ませているので、自由に深大寺を散策し、先ほどの「嶋田屋」前で待ち合わせることにしました。私は、国宝指定された「銅造釈迦如来倚像」(通称:白鳳仏)が公開されていたので、それを拝観しました。この白鳳仏は、深大寺開創時(733(天平5)年)の本尊と伝えられ、およそ1,300年の時代を経ています。こうした仏像が、畿内ではなく関東の地に祀られていることが、不思議な気がしました。
 深大寺を後にして、国立天文台に向かいました。途中、国立天文台で合流予定の34組・阿部くんからメールがあり、「天文台前」のバス停で待っているということでした。天文台までの急な登り坂を歩き、天文台前の交差点で緑のジャケットを着た阿部くんを見つけました。
 国立天文台三鷹キャンパスは少人数ならば予約不要で見学が可能な施設です。守衛所で「VISITOR」と記されたワッペンを頂き、胸に貼り、第一赤道儀室から見学しました。ここは天文クラブだった38組・海老澤くんの出番です。ちょうど係員の方が太陽黒点の観測をしていたので、率先していろいろな質問をしてくれました。今年は太陽活動が停滞している(黒点が少ない)時期にあたるということでした。その他の展示として、国の重要文化財の「レプソルド子午儀」や登録有形文化財の「ゴ―チェ子午環室」などの歴史的な観測装置がありました。
 今年のホットトピックとして、4月10日に新聞発表が行われた「ブラックホール」の影の撮影の説明展示がありました。
 また、右の写真は、1968(昭和43)年に建設が始まり、退役後の2018(平成30)年に三鷹キャンパスに移設された日本初の本格的な6メートルミリ波電波望遠鏡(「天文遺産」候補)で、その前で記念撮影しました。
 国立天文台での見学がかなり長くなったので、帰りは武蔵境駅までバスで移動し、駅ビル2階の「ミアボッカ」で打ち上げを行いました。今回は、古代から近代までのいろいろな遺産に触れることができたウォーキングとなりました。

【撮影・報告】 小久保(35組)

●難台山編(令和元年5月12日開催)

コース: 岩間駅~愛宕山(愛宕神社)~難台山城跡~難台山山頂~スズラン群生地~
    彩美亭(打ち上げ)~岩間駅 (約20キロ)
参加:島田くん、飯村稔くん(33組)、汀くん(34組)、小久保(35組)、飛田くん(37組)、
    酒井(旧姓武石)さん(38組)、堀之内くん、佐々木夫人(39組) 8名

概要: 南北朝時代、伝えられるところによれば南朝方の小田五郎藤綱が籠城して、北朝方の上杉勢が攻めたが落ちなかった難台山城。その後、上杉勢は兵糧攻めに戦術を変更したため、最終的には小田氏は野戦に打って出ざるを得なくなり、小田五郎は壮烈な戦死を遂げたということです。今回の自主トレはこの急峻な崖に位置する難台山城跡を訪ね、そして難台山を登りました。
 右の写真は岩間駅で撮影しました。今回は39組・佐々木くんはお休みですが、奥様が参加してくれました。また33組・飯村稔くんは後から追いかけて登るということです。この写真に堀之内くんが不在なのは「近くにコンビニなどないので兵糧(昼食、おやつ)を事前に用意」とメールしていましたが、買い忘れたということで、少し離れたカスミストアまで買いに出ているためです。きっとどこか途中で合流できるはず…。
 右の地図が岩間駅から難台山へのルートです。毎年5月上旬は難台山中腹のスズラン群生地(地図の左上)でスズランが綺麗に咲くということです。このスズランにちなんで岩間駅前の商店街には「すずらんロード商店街」という名称がつけられています。
 地図からも分かるように難台山城跡や難台山頂付近は急傾斜の登り降りとなっています。岩間駅から出発して、すずらんロード商店街を歩き、小一時間は平担な道を歩けましたが、愛宕神社に近づくとかなりきつい登り坂になりました。自動車道は九十九折の道で、私たちは参道、いや、階段のある山道を歩きました。そして、愛宕神社の二の鳥居前でトイレ休憩しました。
 愛宕神社社殿にお参りする直前のところにはさらに急峻な階段がありました。この愛宕神社(写真下左)は日本三大火防神社のひとつだそうです。社殿の傍には見晴らしの良い場所があり、茨城の平野が一望できました。
 この愛宕神社の隣に鎮座する飯綱神社の祭礼は、日本各地で行われている「悪態祭」「悪口祭」と呼ばれる類型のお祭りで、参拝者同士で『ばかやろう!』『早く歩け!』など罵声を浴びせあい、お供え物を奪い合う変わったお祭りということです。ただし度を超すと、「掟破り行為とみなされ天狗から青竹で阻止されケガをする場合がありますので注意してください」とのことなので、お祭りに参加される場合はご注意ください。

 

 愛宕山は標高306メートルですので、553メートルの難台山まで計算上は250メートルです。しかし実際は、愛宕山からいったん下って、3キロメートルほど尾根を登り降りして、標高298メートルの団子石峠から難台山に登ることになります。写真下左は団子石峠からの登り道で、躑躅が綺麗に咲いていました。また、写真下右は屏風岩と呼ばれている大きな一枚岩で、前が広場になっており、丁度、お昼を過ぎたので、ここでお弁当を頂きました。 

 

 屏風岩から少し登ったところに難台山城跡への分岐道がありました。この先の下り道の傾斜は半端ではありません。木々の間にザイルが張られていて、それに捕まってゆっくり降りました。擦れるので手袋が役立ちました。写真下左は難台山城跡、右は難台山山頂で撮影した写真です。注意して写真を見てください、一名増えていますね。そうです、愛宕山神社の駐車場に車を停めて、トレッキング・ランで私たちを追ってきた33組・飯村稔くんが山頂で追いつきました。なんと速いこと!
 難台山城跡には朽ち果てた案内板があったので、なんとか城跡ということが分かりましたが、自然の地形をそのまま利用した中世の山城なので、素人では何処が城郭なのか判別がつきません。ただこの急峻さでは攻めにくく、反面、水や兵糧を運び入れるのもさぞ大変だったろうと思われました。敵の上杉勢は対面する館岸山(標高256メートル)に陣取ったということですが、直接この難台山城を攻め落とすことは容易ではなさそうです。小田氏の友軍だった真壁氏からの道を遮断することで兵糧を断つのが有効な攻め方だったのでしょう。

 

 難台山頂から尾根伝いに20分ぐらい歩き、スズラン群生地入口で分岐し、やはりザイルが張ってある急峻な坂道を約20分下って、ようやく、群生地に到着しました。写真下左がスズラン、右が私たちです。群生地ということでしたので一面にスズランが咲いているのかと思っていましたが、ところどころに可愛く咲いているという感じです。一株植えたらみるみる広がった私の家の庭のスズランのほうが密集して咲いているなと思いました。たぶん、この地のほうが涼しいので、これから一斉に咲き出すのかもしれません。

 

 当初の予定ではスズラン群生地から愛宕山に戻るつもりでしたが、メンバーがかなり疲れているようなので、降りてきた道をそのまま進み、石岡ゴルフコースの傍を通って、岩間駅に向かい、飯村くんお薦めのローズポークのお店、「彩美亭(さいびてい)」で打ち上げを行うことになりました。しかし一つ問題があります。飯村くんの車は愛宕山山頂の駐車場に停めているので、飯村くんはもう一度、愛宕山に登らなければなりません。まあ、これはアスリート・飯村くんですから心配不要ですね。
 狭い下り道を長沢というところに降り、上杉勢が陣を張った館岸山の麓を歩きました。そして石岡ゴルフコースが見えてくるとかなり平地になり、西の方を振り返ると、先ほど上った難台山が見えました。愛宕山から鋸の歯のようにアップダウンが連続しているのが良く分かりました。たしかに登り降りが多かった。
 そして、延喜式神名帳に記載された神社である格式の高い延喜式内社・羽梨山神社で少し休憩をとり、今度は田圃の中の道を歩きました。愛宕神社への登り口で飯村くんは自分の車を取りに、飛天のごとく、登山道を駆け登って行きました。一方、私たちは彩美亭を目指してとぼとぼと疲れた足をなんとか強いて歩きました。どうにか午後4時過ぎには岩間の街中に到着できました。彩美亭の開店は午後5時なので、それまで、朝、堀之内くんが昼食を購入したカスミストアで休憩しました。そして午後5時が近づいたので彩美亭に移動すると、駐車場には開店待ちの車が既に沢山停まっていました。そのときタイミングよく飯村くんの車も到着しましたが、なかなか停められませんでした。もっと早く来るべきでしたね。私たちも開店待ちの列に並びました。なんという人気店なのでしょう。そう、確かに食べてみれば分かります、ローズポークの美味しいこと。皆さんもお試しください。
 ローズポークとビールで心地よく過ごし、水戸方面は飯村くんの車、常磐線の上り方面は岩間駅から、それぞれ帰宅の路に着きました。今回は久しぶりにちょっと厳しい行程の自主トレでしたが、疲れた後は美味しい料理で癒されました。

【撮影・報告】 小久保(35組)

●清水公園BBQ編(令和元年7月6日開催)

参加:雨澤さん(31組)、川島(旧姓唯根)さん、汀くん(34組)、小久保(35組)、
   飛田くん(37組)、江戸くん(38組)、鈴木(一)くん、大島くん、堀之内くん、
   飯村(洋)くん(以上39組) 10名
場所: 清水公園BBQ場

概要: 2017(平成29)年から2年ぶりの清水公園での夜のBBQ開催です。今回も大洗からの海鮮食材買い出し:江戸くん、その他の食材現地買い出し:雨澤さん、川島さん、飯村くん、堀之内くん、小久保の5名、ピムズ担当:飯村くんという分担で準備しました。 午後8時過ぎまでBBQを行いましたが、食べきれないほどでした。 次回の現地買い出しはもっと控えめにしないといけません。 準備から後片付けまで、楽しいひとときでした。

【撮影・報告】小久保

●武甲山編(令和元年9月1日開催)

コース: 飯能駅=正丸峠ガーデンハウス(前泊)=横瀬駅=生川(うぶがわ)一の鳥居~
    大杉の広場~御嶽神社~武甲山山頂(標高1,304メートル)~大杉の広場~
    生川一の鳥居=武甲温泉=横瀬駅
参加:川上くん(31組)、水飼くん(32組)、川島(旧姓唯根)さん、汀くん(以上34組)、
   小久保(35組)、飛田くん(37組)、堀米(旧姓坂本)さん(38組)、合計7名

概要: 秩父の名山・武甲山に登ってきました。東京から秩父への移動だけでも2時間近くかかるため、川上くんと汀くんは私の地元・飯能市の「正丸峠ガーデンハウス」に前泊し、私も前泊に付き合いました。
 今回登った武甲山は秩父のシンボルですが、地域の主要産業である石灰岩採掘に伴い、その標高が変遷した歴史があります。明治から昭和にかけて山体での掘削が進みました。以前の武甲山の標高は1,336メートルだったのですが、山頂が破壊されたため、1977(昭和52)年には約40メートル低い別の地点に三角点が移動となりました。その後、新しい山頂を測量し直し、現在の標高1,304メートルとなったということです。
 下の写真は朝の横瀬駅前広場で、武甲山を背景に撮影しました。この日は少し曇り気味でしたが、山頂がよく見え、登山には支障ありません。汀くんと川上くん以外のメンバーは、飛田くんは自家用車、水飼くん、川島さん、堀米さんは西武鉄道の新型特急「ラビュー」で横瀬駅に到着しました。なお、この特急ラビューは2019年度グッドデザイン賞の金賞を受賞したのですが、一高の2年先輩の妹島和世さんの会社(株式会社妹島和世建築設計事務所)、西武鉄道株式会社、および、株式会社日立製作所が共同で受賞しました。この電車は座席の窓が大きく、車窓からの眺めが良く、堀米さんたちはきっと芦ヶ久保駅を過ぎたあたりで窓一面に拡がる武甲山を観ることができたことでしょう。

 参加者7名は横瀬駅から川上くんと飛田くんが運転する車2台に分乗し、西武秩父線の線路沿いに走り、武甲山への表参道に出て、生川の一の鳥居まで到着しました。この道の両脇には石灰岩を加工する幾つかの工場が立ち並んでいるので、表参道というよりもまるで工場内の道路を走っているようでした。
 右の写真が生川一の鳥居です。日曜日だったので、午前9時ごろには駐車場はもういっぱいでした。ここには仮設トイレがありますが、横瀬駅のトイレを利用したほうが良さそうです。
 この地、一の鳥居の標高は518メートル、山頂までほとんど登り道なので、本日の獲得標高は約800メートルの計算になります。
 では、山頂まで頑張りましょう!
 駐車場から大きな案内板がある登山口を経て生川を渡ると、昔はマスの養殖場だったと思われる施設がありました。そしてもう少し登ると、なんとそこには「カフェ」がありました。帰りに休んでいこうかなと思いましたが、残念ながらこの日は休業のようでした。このカフェのホームページを後で調べてみると、不定期な開店ということなので、事前に営業しているかどうか調べておく必要があるようです。
 武甲山の登山道には一丁(約100メートル)目毎に「丁目石」が建てられているので、どの位の所を歩いているか分かり、キツイ登り坂でもなんとか頑張って登れました。武甲山の山頂は五十二丁目なので、登り道は5キロ超となります。そして登山道は採掘していない側なので林の中。かなり涼しいのですが、きつい坂を、ただ、ひたすら登り続けました。
 途中の十八丁目にある不動滝では滝の水が飲めるように水が引いてあり、格好の休憩場所でした。水場の近くにはペットボトルが置かれていましたが、それらは山頂にあるトイレまで余裕のある方は水を持っていってほしいということのために用意されたペットボトルでした。沢山は無理でしたが、ちょっとだけ協力させていただきました。
 右の写真は、登り始めて1時間30分で到着した三十二丁目過ぎの大杉広場で撮影しました。まだまだ、皆さん、余裕(?)ですね。
 ここから頂上まで約50分です。時刻は午前11時過ぎなので、武甲山山頂でお昼ご飯にしましょう。
 幸い当日は雨に降られませんでしたが、前の週半ばから秩父地方は雨だったため、登山道には雨水がかなり流れ込んだ模様で、滑らないように慎重に歩きました。
 そう、ここからの二十丁が大変でした。五十一丁目を過ぎたところに御嶽神社があり、参拝しました。そこからもうひと登り、遅れ気味のメンバーもでましたが、なんとか、全員が山頂に到着しました。

 武甲山山頂に到着した時には雲がかかってしまいました。もし晴れていれば芝桜で有名な羊山公園や秩父市の街並みを一望できるのですが、残念ながら雲の向こうになってしまいました。しかし山頂から真下を見ると採掘場がよく見えました。約1,000メートルの断崖、見下ろすだけで肝が縮む思いになりました。
 ではお弁当にしましょう。
 山頂は狭く、20名ぐらいしか座れないかもしれません。隣の3名のグループはコンロでラーメンを作っていました。私たちは登山前に購入したおにぎりやチョコレートなどを食べました。食べ終わったころ、川上くんから「アイスコーヒー飲む?」と尋ねられました。水筒に入れて持ってきたのかなと思いきや、川上くんがリュックを開くと、中にはアイスコーヒーの2リットルのペットボトルと氷、それにたくさんのお菓子が入っていました。
 それを見てみんな唖然。
 登り口から川上くんのリュックがやけに大きいなとは気になっていましたが、これは重かったことでしょう。凄い!(さらに凄いことに、川上くんは先ほどの不動滝でトイレ用の水も持って登っていました)
 というわけで、喜んで川上くんのコーヒーとお菓子をご馳走になりました。
 雨にならないうちにと午後1時過ぎには山頂を後にし、急な下り坂を滑らないように降りました。川島さんは何度かお尻をついていたかもしれませんが・・・
 右の写真は不動滝で撮影しました。まもなく一の鳥居なので、みんなに元気が戻ってきたようでした。
 そう、この後にちょっとしたハプニング。私を追い越して先頭を軽やかに歩いていた堀米さん、登山道から作業用の林道に出たところで、本来の登山道に戻らず、そのまま林道を歩いて行ってしまいました。みんなで大きな声をかけても聞こえないようで、川上くんと私が堀米さんの後を追いました。幸いにも川上くんが速足で堀米さんに追いつきました。そして、3人で間違って降りた林道を登って、正しい下山ルートに戻ることができました。さすが川上くん!
 一の鳥居の駐車場に戻り、川上くんと飛田くんの車で、横瀬駅近くの「武甲温泉」に移動して、ゆっくり温泉につかりました。そしてビールで宴会!
 爽やかな疲れでした。
 だいたい一時間ぐらい楽しんだ後、横瀬駅に移動しました。堀米さん、川島さん、水飼くん、汀くんと私は池袋行に乗車しようとホームで待っていました。そのとき私の携帯に飛田くんから着信があり、私が登山靴を川上くんのトランクに置き忘れているとのこと。急いで改札口に戻り、登山靴を受け取ることができました。上り電車の入線が完了し、閉まっていた遮断機が開くと急ぎホームに駆け戻って、乗車。何とか、セーフ!
 慌ただしくも楽しかった一日となりました。

【写真・報告】小久保

●浅草編(令和元年9月15日開催)

コース: 鶯谷駅~谷中~日暮里~三ノ輪~日本堤~浅草=(水上バス)=日の出桟橋~
    三田慶應義塾大~増上寺 (約10キロ)
参加:石井くん(31組)、水飼くん(32組)、飯村くん(33組)、汀くん(34組)、小久保(35組)、
   高沢くん、飛田くん(以上37組)、海老澤くん(38組)、佐々木くん(39組) 合計9名

概要: 今回は江戸の北側の浅草と南側の増上寺とを、隅田川の舟運で繋ぐ企画です。
午前10時30分に鶯谷駅南口に集合して、国立博物館庭園東側の道路を歩きました。右手に寛永寺霊園がありました。その道路沿いに「厳有院殿霊廟勅額門」があり、観光客と思しき2,3人の方が案内版を読んでいました。「厳有院」は4代将軍徳川家綱公の院号で、「勅額門」とは天皇直筆の額が飾られた門を意味し、この奥に「厳有院殿霊廟奥の院」があります。
 さらに歩くと上野寛永寺がありました。下の写真は寛永寺根本中堂で撮影したもので、過去の自主トレでは2015(平成27)年12月に寛永寺根本中堂を訪れています。その時は浜離宮から約20キロを歩いて到着しました。今回は起点とゴールがほぼ逆になります。しかし、途中は水上バスを利用する予定。楽をしすぎですかね。

 寛永寺を後にして、谷中霊園を抜けて谷中銀座へ向かいました。谷中には2013年(平成25)年5月開催の自主トレで訪れています。その時は酒井さん(38組)に連れられて沢山のお寺を参拝しましたが、今回は行程が長いので、「夕やけだんだん」から谷中銀座を抜け、岡倉天心記念公園(旧居跡)でトイレ休憩をとって、七面坂を登っただけで日暮里駅へ行きました。
 途中、若い女性たちが長い列をなしているところがありました。何かと思えば、かき氷のために並んでいるとのこと。お店のHPによれば天然氷を用いたかき氷だそうです。
 並ぶ価値あり? まあ、このメンバーでは場違いだったでしょうね。
 日暮里駅のロータリーを南東に歩き、根岸を抜けて、旧下谷龍泉寺町に着きました。旧下谷龍泉寺町は現在の入谷2丁目、龍泉1,2,3丁目、千束2,3丁目に亘っています。ここは龍泉寺の門前町で、新吉原への通い道になっていたとのこと。またこの地は樋口一葉女史が1893(明治26)年7月から僅かですが10ヶ月間暮らしたところとしても知られています。
 まず、樋口一葉女史の胸像がある千束稲荷神社をお参りし、飛不動前交差点の少し手前の旧居跡(当時は下谷龍泉寺町368番地)を訪れました。この地で一葉女史の一家は雑貨・駄菓子屋を営みました。この新吉原に近い暮らしの中での経験が、後の「たけくらべ」などのモチーフになったということです。
 そして一葉記念館の前を通り土手通りにでました。土手通りは「日本堤」とも呼ばれ、多くの浮世絵の題材となっていました。よく観察すると、土手通りは他の所よりもわずかに高くなっています。土手通りから新吉原大門は直接には見えず、それに通じる交差点の片隅にそっと「見返り柳」が植えられていました。国立国会図書館のHPによると「日本堤から衣紋坂を通り、堤から遊郭が見えないように曲がった五十間道を経て、大門をくぐって入る。日本堤から衣紋坂へと曲がる東角に柳があり、客が振りかえって名残を惜しむ位置にあるために『見返り柳』と呼ばれる」とのこと。堤から遊郭が直接見えないように配慮がなされていたわけですね。
 日本堤のところの堀が「山谷堀」で、昭和の中ごろまでには全て埋め立てられました。その跡地は現在「山谷堀公園」となってウォーキングに格好の場所です。さらにここからのスカイツリーの眺めがよく、下の写真のようにコラボが楽しめます。

 本日の昼食は、江戸時代に大きな戸沢長屋があったところに建設された松屋浅草(東武浅草駅)の地下で各自お好みのお弁当(写真右)を調達し、当時の船着き場だった「花川戸」、現在の隅田公園で食べるという趣向です。
 下の写真は隅田川とスカイツリーを背景に撮影しました。

 お昼の後は、隅田公園のそばの吾妻橋の乗船場から水上バスに乗り、日の出桟橋まで隅田川を下る約40分の船旅をしました。船内には地ビールなどを売る売店がありましたが、すぐ長い列ができました。ビール組はかなり待ったことでしょう。隅田川に架かる橋の下をくぐりながら、船窓からゆっくりと変化していく両岸の景色を楽しみました。
 日の出桟橋から末広橋を渡り、高層ビル「シーバンス」の中を抜けて、旧薩摩藩三田藩邸跡(NEC本社)を通って、慶應大学の福澤諭吉先生の胸像の前で下の写真を撮りました。銅像の後ろはスピーチやディベートの法を研究するため1875(明治8)年に建設された三田演説館です。

 慶應大学を後にして徳川家廟所(第2、6、7、9、12、14代の6人の将軍)の増上寺に行きました。時刻は午後4時30分過ぎでちょうど西日が逆光になってしまいました。もう、打ち上げのお店も開いていることでしょう。

 さあ、打ち上げ、佐々木くんは所用のため帰宅されたので、下の写真は8名です。
 今回は鶯谷を起点に、樋口一葉女史の旧居を訪ね、谷中堀公園を散策して隅田公園でお弁当、浅草から水上バスで移動し日の出桟橋にて下船したのち、慶應大学、増上寺を訪ねる長丁場でした。歩いた距離は10キロぐらいで、翌月の「復活・歩く会」本番に向けた軽い足慣らしとなりました。

【写真】佐々木くん(39組)【報告】小久保

●野火止用水編(令和元年11月30日開催)

コース:和光市駅~りっくんランド~(昼食)~新座市役所~睡足軒の森~ 平林寺~
    武蔵野用水史跡公園~清瀬駅(打ち上げ) (約15キロ)
参加:雨澤さん(31組)、水飼くん(32組)、汀くん、阿部くん(以上34組)、小久保(35組)、
   飛田くん(37組)、堀之内くん(39組) 合計7名
   ただし雨澤さんと阿部くんは平林寺から合流。

概要: 今回の自主トレでは、江戸時代から武蔵野の田畑を潤してきた野火止用水に沿って散策しました。集合は和光市駅。東武東上線と東京メトロ副都心線が接続する駅です。和光市駅を出発しようとGoogleマップで駅付近の状況を確認したら、地図上に「ニホニウム記念碑」という記述を見つけました。
 「ニホニウム」? 
 初めて聞く方もいるでしょうから、ちょっと解説。これは2015(平成27)年に国際機関に認定された原子番号113番の元素の名称です。大学や研究機関を主要顧客に持つ堀之内くん(39組)が「この近くに理研(理化学研究所)の施設があるからでは」と言ったので、その記念碑まで寄り道してみることにしました。
 右の写真は「ニホニウム(元素記号Nh)」の3Dモニュメントで、東京外かく環状道路(外環)の橋上に設置されていました。Nhは理研の仁科加速器科学研究センターの森田浩介教授の研究グループが発見したもので、東洋で初めて命名権が与えられた元素ということです。命名権取得を記念して、和光市駅から理研まで元素記号の路上プレートが埋め込まれています。高校時代に好きだったかどうかは別にして、物理のお勉強に一度訪問されるとよいでしょう。
 寄り道を終えて再び和光市駅前に戻り、和光市駅前通りから川越街道(国道254号)を川越方面に歩きました。すぐに陸上自衛隊朝霞駐屯地がありました。駐屯地の入口には「オリンピック会場」と看板がかかっていました。ここは1964年の東京オリンピックでライフル射撃競技の会場となり、2020年のオリンピック・パラリンピックでも射撃競技が行われます。
 今回は朝霞駐屯地に付属する「陸上自衛隊広報センター」、通称「りっくんランド」に入場します。この施設では、陸上自衛隊の担う幅広い役割、災害派遣など国内における活動や海外における国際平和協力活動などの状況が多くの写真や資料がとともに紹介されていました。「過度な飲酒をされているお客様の入館はご遠慮いただきます」との掲示があり、一同、思わず堀之内くんのほうを見ましたが、たぶん大丈夫でしょう。
 まず2階に上がりました。自衛隊の歴史、特に1992(平成4)年からのカンボジア派遣を始めとしたPKOなど海外協力の展示が印象的でした。次に吹き抜けとなっている展示室に移ると、陸上自衛隊のヘリコプターや戦車が展示されていました。服装体験コーナーでは、隊員服を着た子供たちが写真に納まっていました。まだ空いていた時間帯なので、私たちはヘリコプターのフライトシミュレータを体験してみました。実際に使われていたフライトシミュレータで、飛行のリアリティが高く、左右に激しく揺れ、機関銃射撃の反動を体験できました。
 右の写真は屋外展示装備品の前で撮影しました。ここで過ごす時間はせいぜい30分ぐらいかなと計画していましたが、悪童5人は、ほっておくとずっとここで時間を過ごしてしまいそう。かれこれ1時間以上滞在し、最後に売店で自衛隊カレーやカレーラーメンなどのお土産を購入しました。
 次に平林寺に向かうため、広い川越街道を歩きました。すると、汀くんが「お昼は?」と聞いてきました。「平林寺前の『ひるねの森駐車場 竹映』で蕎麦です」と答えたところ、「有名なラーメン屋さんがあるので、ラーメンにしない?」とのこと。近くならばいいけど…と返事をして、汀くんに案内してもらうことにしました。とはいっても、汀くんはお店の場所を知っているわけではなく、スマホの地図とくびっきりの状態なので、ちゃんとたどり着けるのか、かなり不安でした。
 その不安はみごと的中!
 川越街道を歩けどもそれらしいお店はなかなか見当たらず、ようやく新座駅にほど近い交差点を左に曲がり、汀くんが目指していた「ぜんや」というお店の前にたどり着きました。しかし、お店の外には既に行列ができていました。どうやら8席しかないお店のようなので、黄金に光るスープのラーメンは断念。後でホームページを調べてみたら、「行列必至のお店、絶品の塩ラーメン」ということで、しかも開店している時間帯も短い。早めに行列に並べることが可能な方はお試しあれ!
 ということで、近くのお店はとスマホでなく視認で探索したところ「中華古味虎」というお店がありました。幸いにも5名全員がすぐに入ることができました。
 もうお腹が空いていたので半チャーハン付きのラーメン定食を注文しました。
 汀くんのお陰で何キロ余分に歩けたのだろうか?
 昼食後は、取り敢えず平林寺に戻れる道を歩きました。野火止公民館の前の「こもれび通り」を歩き、しばらくして野火止用水を渡り、「平林寺」境内の北側に出ました。平林寺の境内林を過ぎると交差点となっており、そこに新座市役所がありました。
 この日、11月30日はなんと新座市役所で「リサイクルマーケット」が開催されており、駐車場には沢山のお店が出て、大勢の人が集まっていました。それに市役所前の道は大渋滞となっていました。
 すると阿部くん(34組)から電話があり平林寺に到着したとのこと。予定よりも早いバスに乗車したので、渋滞していたが早めに到着できたということでした。「こちらはリサイクルマーケットが開催されている新座市役所でトイレ休憩中」と返事をすると、場所は分かるから新座市役所で待っていてくれということでした。
 あれ、阿部くんと一緒のバスに乗るはずだった雨澤さん(31組)は?
 それから間もなく、雨澤さんからのメールが着信しました。「バスが大渋滞で遅れているので予定の時間までに到着できそうもないし、乗っているはずの阿部くんもいない」という心細げな文面でした。そうこうしているうちに阿部くんが新座市役所に到着して無事合流。状況が分かり、すぐに雨澤さんに予定の「平林寺」バス停ではなく、一つ手前の「新座市役所」バス停で下車するように伝えました。そして、新座市役所前で待つこと約5分で今日の参加者7名が揃うことができました。
 そして全員揃って「睡足軒の森」に行きました。睡足軒の森は、電力事業の分割民営化を成し遂げ「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門氏が飛騨高山周辺に建てられていた江戸後期の民家を1938(昭和13)年に平林寺境内に移築し、「田舎家の茶」を楽しんだところです。右の写真は、雨澤さんと阿部くんも加わって、広いお庭の紅葉を背景に撮影しました。
 次は平林寺を参拝しました。平林寺は南北朝時代に岩槻で創建され、江戸時代に幕府老中を務めた松平伊豆守信綱公の遺命によって、1663(寛文3)年、当地、野火止(のびとめ)に移転されました。山内は13万坪以上にも及んでいます。
 現在でも平林寺は禅宗僧侶の修行道場となっています。総門から入山すると、立派な山門が待ち構えていました。平林寺が岩槻から移転したときに移築された由緒ある山門で、県の有形文化財に指定されています。次に仏殿がありましたが、それよりも奥の平林寺林泉境内は一般客の立ち入りは禁止されていました。
 参拝コースは仏殿の所を左に曲がり、野火止用水から水を引く放生池の脇を通るようになっていました。それから先は紅葉が鑑賞できるところです。ここで水飼くん(32組)がいないことに雨澤さんが気づきました。すぐに私が参拝コースを戻り、半増坊感応殿のところで見つけました。
 さらに散策路を進むと「島原の乱供養塔」がありました。松平信綱公は島原の乱の平定に功があり、幕府側の戦死者を弔っているとのことでした。その先には野火止用水から分水された「平林寺堀」と呼ばれる水路があり、松平信綱公に繋がる「大河内松平家廟所」がありました。さらに歩くと「もみじ山」があり、境内林の中をゆっくり散策しました。
 次に向かったのは「野火止用水史跡公園」です。ここは野火止用水とその分流である平林寺堀の分流点にありました。右の写真は夕日が差し込む中、「清流復活の碑」の前で撮影しました。一時は水質が悪くなってしまったものの、下水処理水をさらに浄化した高度処理水を流水させることで、1984(昭和59)年に野火止用水に流水が蘇り、現在に至っているということです。
 ここからは新座めぐり「野比止用水を巡るコース」に沿って清瀬駅まで歩きました。概ね3.5キロです。野火止用水に沿って歩道が整備されているので歩きやすく、それに平坦。西武線の線路が見えてくると間もなく清瀬駅。夕闇が迫っていたのでかなり速く歩きましたが、雨澤さんも含めて全員がしっかり歩き、当初予定時間の午後4時30分には清瀬駅に到着しました。
 打ち上げは清瀬駅近くの「はなの舞」です。下の写真はお店の方に撮影してもらいました。今回は「りっくんランド」で長居してしまったことと、汀くん提案のラーメン昼食のため、予定した歩行距離を大幅に超えることになりました。また、リサイクルマーケットのための大渋滞で雨澤さんたちとの合流が遅れるなど、いろいろありましたが、最後はみんなの頑張りで、予定通り清瀬駅まで歩くことができました。特に平林寺や「睡足軒の森」の紅葉が綺麗でした。

【写真・報告】小久保

●田町から品川へ編(令和元年12月21日開催)

コース:田町駅~蕎麦切 砥喜和~オーストラリア大使館~ 赤い靴の女の子像~
    十番稲荷~狸穴公園~愛宕神社~東京クリスマスマーケット~増上寺~
    札の辻~泉岳寺 ~忘年会(品川DAD BOD)
自主トレから参加:雨澤さん(31組)、水飼くん(32組)、島田くん(33組)、
    川島(旧姓唯根)さん、汀くん(以上34組)、小久保くん(35組)、
    石原(旧姓小野)さん、大森くん、高沢くん、飛田(以上37組)、
    酒井(旧姓武石)さん、江戸くん(以上38組)、
    飯村(洋)くん、堀之内くん、鈴木くん(以上39組) 15名
忘年会から参加:堂(旧姓飛田)さん(33組)、大島くん(39組) 2名

概要: 年末恒例の39組・飯村洋一くん企画のグルメツアー自主トレ&忘年会を行いました。グルメツアーなので、集合してすぐに「蕎麦切 砥喜和」で腹拵(はらごしら)えです。第13回復活歩く会のフォトブックを回覧しながら、「自家製蕎麦と和食お惣菜ランチ」を堪能しました。蕎麦の風味がしっかりした美味しいお蕎麦と色々味わえる楽しいお惣菜でした。


 栄養を補給したところで本格ウォークの開始です。開始早々ですが、オーストラリア大使館前を通過するころには、いつものように先頭集団と第2集団に分かれてしまいました。まあ、これも恒例(高齢)の歩く会スタイルです。


 暫く歩くと、若者たちがパフォーマンスを楽しんでいる広場に出ました。そこは、「赤い靴履いてた女の子、きみちゃん」の居る麻布十番商店街です。


 商店街からほど近いところ、「きみちゃん」の最期を看取った孤児院鳥居坂教会)跡地に「十番稲荷」があるので、ここで休憩してお参りしました。


 次のスポットは、「別れても好きな人」に歌われた「狸穴(まみあな)」です。但し、歌詞にあるのはパープル・シャドウズ版のみです。その後、ヒット曲になったロス・インディオス&シルヴィア版の歌詞はお洒落スポットに入れ替えたとのことで、「狸穴」が「高輪」になっています。確かに、狸穴と高輪ではイメージが大分変りますね。ともかく、オジサンとお姉さんたちは、渋い狸穴公園に立ち寄りました。


 次は、天然の山として23区最高峰(標高25.7m)の愛宕山にある愛宕神社です。参道の一部である「出世階段」と呼ばれる急な石段を見上げると、水戸一高の校長まで登り詰めた39組・鈴木くんが万歳して迎えてくれました。やはり名実共に出世階段のようなので、全員で(あやか)ろうと頑張って登りました。定年過ぎてから登っても手遅れの感は否めないですが(笑)。




 39組の高校生活の反動で、女性陣に多大なる気遣いのある飯村くん企画で「港区立みなと図書館前の東京クリスマスマーケット」に立ち寄りました。忘年会まで待てないのか、いや忘年会欠席の穴埋めか、お姉さんたちは行列に並んでお洒落な赤ワインを楽しんでいたようでした。人混みの苦手なオヤジには、忍耐の時間でした(笑)。


 クリスマスマーケットの喧騒を抜け出し、今年二度目の増上寺に立ち寄り、札の辻を経て久しぶりの泉岳寺を目指しました。




   泉岳寺が本日の自主トレの終着点です。ここから帰路に就き品川駅に向かう石原さん、酒井さん、大森くんを見送り、残りの12人で品川Dad Bodを目指しました。ところがGoogleマップの案内通りに行ってもたどり着かず、周りをよく見たら入口がブロックの反対側にあると判明しました。大きなビルを半周する形でオマケウォークです。ゴール到着と思ってからの追加分は、実際よりも長く感じます。やっとの思いで店に到着すると、一番着の大島くんと品川駅から迷子になっていたはずの堂さんが、先に座って待っていました。余分に歩いた分で迷子にも負けました(笑)。


   Dad Bodで美味しい料理や思い思いの飲み物を楽しんで、今年の一年を振り返り、また来るべき新年の皆の自主トレ&復活・歩く会での健闘を誓いました。このときは・・・。まあ、何はともあれ、楽しい年末企画を組んでくれた飯村洋一くんに一同感謝です。また、いつか、このような楽しい「リアル飲み会」ができる日が来ることを切に願います。

【写真】小久保くん(35組)、飛田(37組) 【報告】飛田(同)